御祭神

八幡大神 応神天皇(おうじんてんのう)

第十五代天皇・誉田別命(ほんだわけのみこと)

<相殿>

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

第十四代天皇・応神天皇の父君

神宮皇后(じんぐうこうごう)

応神天皇の母君・三韓征伐を指揮

【御神徳】厄除開運・成功勝利・国家鎮護・生業繁栄・安産子育守護 …を始めとした諸願成就

 

〔御祭神の御事跡〕

(三韓征伐と応神天皇の御生誕)※1「三韓」とは新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)の三国を指す

・3世紀初め 仲哀天皇、熊襲(くまそ)※2 征伐中に崩御される

 ※2:熊襲とは当時の大和王権と対立していた九州中部の部族と見られる

・この時、既に応神天皇を身籠っておられた神功皇后は天照大神・住吉大神から胎内の皇子が国を統治されるべきである事、西方の国(三韓)を服属させ授けるとの御神託を受けられた

神功皇后は武内宿禰ら臣下と共に熊襲を服属させ、次いで船団を率いて新羅遠征を行ない平定された(百済・高句麗は新羅の降伏を受けて恭順の意を示した)

この遠征の間、神功皇后は月延石(つきのべいし)という石を腰に当ててさらしを巻き応神天皇のご出産を遅らせたと伝わっており、新羅平定から戻られた後、九州の筑紫にて応神天皇をご出産された

・また、畿内に戻られてからは仲哀天皇の後継争いを鎮められ、応神天皇を皇太子として養育されながら、即位されるまでは摂政として国を治められた

この神功皇后のご事績から、八幡大神・特に相殿として必ずお祀りされる神功皇后におかれては、古くから安産・子育守護の御神徳ありとされてきました

(国家鎮護の神へ)

〔西暦571年(欽明天皇32年)〕 応神天皇の御神霊が大分・宇佐の地に御姿を現す

・この時、応神天皇の御神霊は、現在の宇佐神宮の菱形池の畔の竹の葉の上に三歳の幼児の姿で示現され「我は人皇第十六代誉田天皇 ※3 広幡八幡麻呂なり」と名乗られ、八幡大神が応神天皇である事が明らかとなった

 ※3:誉田(ほんだ)天皇とは、応神天皇の在位中のお名前 / また、当時は神功皇后が第十五代天皇とされていたが、大正時代に神功皇后は摂政であり、第十五代天皇は応神天皇であると定められた

〔720年(養老4年・天正天皇)〕 隼人(はやと)※4 の乱に際し、八幡大神自ら征伐に赴くとの御神託あり、大神を奉じる軍勢は朝廷軍と共に乱を平定

 ※4:隼人とは鹿児島・宮崎南部を拠点とした部族

〔725年(神亀2年・聖武天皇)〕 宇佐八幡(現 宇佐神宮)創建、八幡大神を御祭神とする ※宇佐神宮は全国の八幡神社の総本宮とされる

〔749年(天平勝宝元年・聖武天皇)〕 東大寺大仏造立を天神地祇と共に助ける旨の御神託の上、平城京へ入京

〔769年(神護景雲3年・称徳天皇)〕 宇佐八幡神託事件(道鏡事件)

・称徳天皇(孝謙天皇)に取り入り法皇の地位を得た僧 弓削道鏡(ゆげどうきょう)が、「道鏡を皇位に就ければ天下泰平である」旨の偽の神託を奏上して皇位を狙った事件

・再度の神託を請うべく、和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡に赴いたところ、「我が国開けてよりこのかた、君臣定まりぬ。臣をもって君とすることは未だあらず。天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は速やかに掃い除くべし。」との御神託があり、道鏡の野望は阻止された

〔781年(天応元年・光仁天皇)〕 朝廷より宇佐の八幡大神へ「護国霊験威力神通大自在菩薩」(ごこくれいげんいりきじんづうだいじざいぼさつ)の神号が贈られ、以後 一般には「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)と呼ばれた

〔859年(貞観元年・清和天皇)〕 大安寺の僧 行教へ「吾れ都近き石清水男山の峰に移座して国家を鎮護せん」との八幡大神の御神託があり、翌年 石清水八幡宮が創建される

・こうした経緯から、八幡大神は天皇家から皇祖神・天皇家の守護神として伊勢神宮に次ぐ第2の宗廟として篤く崇敬されると共に、平安京の裏鬼門を守護する石清水八幡宮を中心に国家鎮護の神としての八幡信仰が拡がることとなった

・「八幡大菩薩」の神号に見られるように、八幡大神は近世まで神仏習合が色濃い神様であり、東大寺大仏の件に始まって仏教守護の神としての要素も併せ持った

・宇佐神宮や石清水八幡宮など主要な八幡宮は神宮寺が置かれ、別当と呼ばれる社僧が神官と共に八幡大神を祀る形態が江戸末期まで続いた

(武士の守護神・勝利の神としての崇敬)

・11世紀中頃、河内源氏の祖 源頼信が石清水八幡宮を源氏の氏神として崇敬するようになる

・また、その孫 源義家は七歳の年に石清水八幡宮にて元服した為、「八幡太郎」と呼ばれた

武士の頭領」たる源氏の八幡大神への崇敬は、他の武士や彼らが管理する全国の荘園にも拡がり、武運の神・勝利の神「弓矢八幡」と呼ばれ武士全体から崇敬を集めることとなった

・義家の直系子孫には、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏がおり、武家政権のバックアップにより八幡大神への崇敬はより確固たるものとなった

・実際に頼朝は鎌倉に石清水八幡宮の神霊を勧請した鶴岡八幡宮を造立し、鎌倉の街の中心に位置付けたし、足利尊氏は足利所領の丹波国 篠村八幡宮にて鎌倉幕府倒幕の旗揚げを行なった

・八幡大神への崇敬は、戦国時代の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らにも引き継がれた (比叡山焼き打ち等、仏教勢力と争った信長であるが、一方で石清水八幡宮には純金で覆った「金銅の樋(ひ)」を奉納している)

(武の神から日常生活を守護する神へ)

・明治時代以降の神仏分離の宗教政策により、主要な八幡宮に存在した神宮寺や八幡神像など仏教的要素は排除され、「八幡大菩薩」の神号も公式には使用されなくなった

・また、明治維新による武士階級の衰退により、八幡大神に対しても武の神としての崇敬に代わって「厄除開運」や「生業繁栄」と言った一般的な日常生活に関わる御神徳が重視されるようになった (石清水八幡宮も、現在は厄除開運が最も有名なお社となっている)

 

【参考文献】・謎多き神 八幡神のすべて(新人物往来社)/・八幡大神 鎮護国家の聖地と守護神の謎(戎光祥出版)