松帆神社ブログ第14回・~太陽の道~ 北緯34度32分の謎と松帆神社① 「太陽の道」とは何か?

皆様は「太陽の道」という言葉をご存知でしょうか?

これは、奈良在住の写真家で歴史研究家の小川光三氏が1973年に著書「大和の原像」(大和書房)にて提唱し始めた説で、その説を元に、NHKの歴史番組のディレクター・水谷慶一氏が制作したNHKスペシャル「謎の北緯34度32分をゆく」(1980年2月11日建国記念日の夜放送)で取り上げられ、一躍有名になったものです。

 

 

このTV番組の中で「太陽の道」の終着点として松帆神社の近隣の神社も取り上げられ、観光客がどっと押し寄せる事態になったそうです。

38年経った現在では、その番組の内容を覚えておられる方は少なくとも50代以上という事で、一般的には忘れ去られたと言ってよい状況です。また、民間の研究者の個人的見解という扱いで考古学会からは黙殺されており、現在「太陽の道」を研究しておられる方も私の調べる限り見当たりません。

 

こうした不遇の道をたどっている「太陽の道」の説ですが、件のNHKスペシャルの影響は大きく、未だに「太陽の道に関係するお宮へお参りに来ました」という方が松帆神社へも年に10名程度はお立ち寄りになる程です。

だからと言って、直接関係ない松帆神社のブログでどうして取り上げるの…?というご指摘がありそうですが、こちらの写真をご覧下さい。

 

これは、松帆神社の拝殿の前で緯度を計測した際の画像ですが、ご覧いただくように松帆神社は「北緯34度32分」の線上にほぼ位置しているのです。しかも淡路北部・東浦の海岸線全体が北北東方向に傾くような地形となっている中で、松帆神社は真東に向くように建てられています。

 

もしかして、太陽の道に何らかの関わりがあるのか…、それともそれ以外の意図があるのか…、と疑問に思い個人的に小川光三氏の「大和の原像」と、水谷慶一氏がNHKスペシャル制作と同時進行で執筆された「知られざる古代 ~謎の北緯34度32分をゆく~」(NHK出版協会)を読み込み、関連する遺跡や社寺を実際に訪れて今回のブログを書くに至った次第です。

 

今回のブログでは、「太陽の道」シリーズ1回目として、「太陽の道」の説をダイジェスト版で極力分かり易くご紹介したいと思います。

(とは言え、ダイジェストでも結構長いんです。できればお付き合い下さい。)

 

小川光三氏が提唱した「太陽の道」

小川光三氏は、奈良在住という利点を生かして仏像の写真や奈良盆地の風景写真などをメインに撮影されていたようですが、その風景撮影の中で日の出・日の入りの方角に留意しているうちに、奈良盆地南部の主要な神社や遺跡の位置関係に太陽の方角と絡めた一定の意図があるのではないかと気付き、「大和の原像」を書き上げられました。

その著作のメインとなっているのは、実は「太陽の道」ではありません。

奈良盆地の南・桜井市にある日本最古の神社の一つ 大神(おおみわ)神社の御神体とされる三輪山(みわやま)を核として、正三角形を描くように神社や天皇陵が配置されており、古代(古墳時代前期頃か)の太陽信仰と三輪山への信仰がこのような配置を生んだのではないか…とする説です。

 

大神神社は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を御祭神とし、大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)を併せ祀る大和国一宮・名神大社であります。伊勢の神宮が設けられるより前の古代においては、その位置付けの高さは一宮や名神大社という尺度では表しきれない程であったようです。

<大神神社拝殿>

<大神神社・二の鳥居>

<大神神社・大鳥居>

 

さて、実際に小川氏が提唱した説を分かり易く地図上に示すとどうなるのか、見ていただきましよう。

 

上記の図は「大和の原像」の中の地図ですが、三輪山山頂から真西にあって三輪山を遥拝する場所に 式内社・多(おお)神社が、三輪山から見て夏至の日の入りの方角(30度の角度で南西に向かう方角)には神武天皇陵が、冬至の日の入りの方角(30度の角度で北西に向かう方角)には鏡作神社群が存在するとされています。

<多神社 拝殿>

<多神社から臨む三輪山>

<神武天皇陵>

こうした太陽の日の出の位置は、春分/秋分、冬至、夏至という暦が把握できていれば比較的容易に調べることができますが、古代の技術でこれだけ正確に測位ができていたとすると驚くしかありません。

 

小川光三氏の「太陽の道」の説は、このメインテーマに付随するような形で7章あるうちの1章を割いて語られています。それを説明する模式図が文中にあるので見ていただきましょう。

 

まず「太陽の道」の起点となるのは三輪山の麓にある古墳時代の遺跡群・纏向(まきむく)遺跡の中でも主要な前方後円墳であり、卑弥呼の墓との説もある「箸墓(はしはか)古墳」(大市墓とも言う)です。

<箸墓古墳 遠景>

<箸墓古墳(大市墓)遥拝所>

<箸墓古墳・遥拝所の緯度>

そして、箸墓古墳のすぐ東側にあって、第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が宮中にお祀りしていた天照大御神をお遷しし初めて宮中以外にお祀りした倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)の地に創建され、「元伊勢」とも呼ばれる桧原(ひばら)神社がもう一つの起点となり、この2つの点を結ぶ線が「太陽の道」の始まりとなるのです。

<桧原神社(元伊勢)>

<桧原神社の緯度>

 

東西に延びる「太陽の道」

上の箸墓古墳の遥拝所と桧原神社の緯度をご覧いただくと、太陽の道は「北緯34度32分」ぴったりではなく、北緯34度32分18~20秒付近を中心とする太い帯状のラインになる事がお分かりいただけると思います。

小川氏の説は、この太陽の道が、伊勢の神宮(内宮)の斎主として天照大御神に仕えられた皇女「斎王(さいおう)」の住居施設「斎宮(さいくう)」跡の史跡を通るとし、太陽の神である天照大御神への信仰の元に太陽の道に沿って日の出の方向である真東へ、海に突き当たる地点まで約70km東に進んだ場所を斎宮としたのではないか…としています。

 

日本書紀においては、豊鍬入姫命に代わって倭姫命(やまとひめのみこと)が改めて天照大御神を奉斎すべく笠縫邑を出立し、奈良県の宇陀を通り近江を抜けて岐阜・美濃を回って最終的に伊勢に至ったとされている為、小川氏の説にはやや唐突感がありますが、伊勢の斎宮には内宮ができるまでの間 天照大御神をお祀りしたという話もあり、斎宮が様々な意味で重要な場所である事には間違いがありません。

斎宮跡は1970年頃から三重県明和町付近で発掘が進み、東西2km・南北0.7kmとかなり大規模なものであった事が分かってきています。建物についても100棟以上が建っていたと考えられており、往時の斎王の位置付けの高さが伺われます。

<斎宮復元施設・「さいくう平安の杜」>

<斎王の森(斎王の住居跡と伝わる)>

ちなみに、この斎王の森付近の緯度は「北緯34度32分25秒」。

緯度1秒が約30mとして、東に70km進んでもその南北方面への誤差は200m弱で済んでいる事になりますし、斎宮全体が南北に700mの幅がある事を考えると全くずれていないとの見方もできます。いずれにせよ、仮に何らかの方法で測位を行っていたとすると、古代の技術はかなりのものであった事になります。

 

さて小川氏は、太陽の道の東方向へのポイントを斎宮に置く一方で、西方向へ向かった場合のポイントを淡路島にある「伊勢の森」という山に設定しました。

「伊勢の森」とは、正確には常隆寺山という淡路市で2番目に高い山の山頂にあって、天照大御神をお祀りしているとされる祠のある一帯の事を指します。現在は木が繁って眺望が悪くなっていますが、古代においては淡路島北部の四方を見渡せる場所であったと思われます。

 

ここまでの話を総合して、小川氏が考えた「太陽の道」の姿を地図上に表すと以下のようになります。

 

但し、問題となるのは西の端のポイントとされる「伊勢の森」が太陽の道のラインからは大きく南に外れているという点です。

この地点の緯度は北緯34度30分31秒と、太陽の道のラインからおよそ3.4km程南に外れています。ここまで見てきたように古代の測位の精度がかなり高いのであれば、これは誤差とは言えないズレになります。

 

小川氏の「太陽の道」説の弱点

ここまで見たように、小川氏の説は着眼点としては興味深いものの、いくつかの弱点があったと言えます。

 

①「太陽の道」を構成するとされた神社・遺跡群の大半が小川氏が調べて回れる奈良周辺のものであり、ラインを構成するポイントとされた遠隔地の遺跡等については書物での調査がメインになっている事。(斎宮以外は詳細な現地調査ができてきない)

②「太陽の道」の西側のポイントとなるべき「伊勢の森」がラインから大きく外れており、太陽の道の存在を補強し切れていない事。

③どうやって「太陽の道」を形成する為の測位を行なったのか、有効な仮説を立てられなかった。

④なぜ古代において「太陽の道」を形成する必要があったのか、有効な仮説を立てられなかった。

 

こうした弱点や、自説をまとめた出版物を世に問うたものの奈良ローカルに留まって議論の拡がりがなかった事などもあって、「太陽の道」という説は7年間日の目を見ない事になったのだろうと推察されます。

この状況を変えたのが、番組制作に関係して小川氏と交流のあったNHK・水谷氏だったのです。

 

水谷氏・「太陽の道」説を大幅に補強する

水谷氏の直接的な功績は「太陽の道」という説を、1980年当時は今現在よりももっと強力なメディアであったTVで、しかも建国記念日のNHKスペシャルという注目度の高い番組で紹介し一気に日本全体にその説を行き渡らせたという点になりますが、そこに至るまでには小川氏の説を下敷きにしながら地道な取り組みで補強を行っていった事が「知られざる古代」の文中から伺う事ができます。

 

【水谷氏が行った「太陽の道」説の補強】

①「太陽の道」を構成すると思われる新たな社寺・遺跡を定めた。また、「太陽の道」線上を現地調査し、太陽祭祀と関係の深い祭祀遺跡と思われる多数の磐座(いわくら)を確認した。

【例①】「大鳥大社」(大阪府堺市)御祭神:日本武尊/倭建命(やまとたけるのみこと)

<大鳥大社拝殿> ※緯度は北緯34度32分11秒

 

【例②】「長谷寺」(奈良県桜井市)御本尊:十一面観世音菩薩(天照大御神の本地仏)

<長谷寺本堂> ※緯度は北緯34度32分9秒

 

【例③】舟木石上(ふなきいわがみ)神社(兵庫県淡路市)

※地図上で見つけた淡路市の伊勢久留麻神社(松帆神社の兼務社・式内社)を調査に来た際に市職員に案内されて辿り着いた。この舟木石上神社を発見できた事により、小川氏ができなかった「太陽の道」の西の端のポイントを定める事ができた。

<舟木石上神社の磐座> ※緯度は北緯34度32分26秒

 

②「太陽の道」を形成する上で必要な測位を担った一族として「日置(ひき)」氏の存在をクローズアップした。

・日置氏は大和国葛上郡日置郷を本拠とする特殊な職能を持った一族とされる。

・水谷氏は、日置の一族(「日置部:ひきべ」とも言う)が、太陽神を祀り暦法・卜占と関係する集団であり(民俗学者 柳田国男/折口信夫らの説)、かつ浄火や宮廷の灯火の管理に携わった集団であり(民俗学者 中山太郎らの説)、かつ租税徴収の為に戸籍調査/地勢調査を行う集団である(江戸時代の学者 伴信友らの説)という3つの職能を持った「影の測量師」と言うべき集団であったという仮説を立てた。

 

③「太陽の道」のラインを引く為の、古代でも実行できた筈の火を利用した測位方法を検証し充分な精度がある事を証明した。

・松阪市の標高757mの堀坂山山上から麓までの5kmの距離でかがり火を用いて東西の直線を引く実験を行い、レーザー測位に対して誤差20mという高い精度を実現した。

 

④「太陽の道」を形成された理由付け(なぜそうしたか)を行った。

・水谷氏は、当時の権力者(時期的にヤマト王権/大和朝廷か?)が、各地の人民の支配と租税徴収の為に太閤検地のごとく太陽の測位と火を用いた測量の技術で検知を行い、租税徴収の基盤を築いたが、その象徴的事業として「太陽の道」のラインを引いたのではないか…と結論付けた。

 

「太陽の道」のストーリーは淡路島北部で続いている?

ここまでご説明したように、小川氏が発見した「太陽の道」という仮説に対して、水谷氏が粘り強く「どこに」「誰が」「何のために」「どうやって」太陽の道のラインを引いていったのか、現地現物での検証を元に一定のストーリーと確からしさをもって提示した事によって、「太陽の道」のNHKスペシャルは多くの人々の心を掴むことができたのであろうと思われます。

現に、38年後の現在、水谷氏の「知られざる古代」を読み返してみても、決して色褪せない臨場感を感じさせてくれます。

ですが、「太陽の道」が淡路島の北部、舟木石上神社まで到達していたとして、話はどうもそれだけでは終わりではなさそうなのです。

 

冒頭に申し上げたように、そもそも私が太陽の道に興味を抱いたのは松帆神社の何故この場所に建てられたのか…という疑問に端を発しています。

実は、前述の「伊勢の森」「伊勢久留麻神社」「舟木石上神社」を始め、近隣の神社と松帆神社の位置関係、そして淡路島の祭祀遺跡を調べた結果、この淡路島北部を中心とした新たな「太陽の道」と言うべき不思議な位置関係が存在する事が分かってきたのです。

今回は導入部分の話ながら既に長々と書いてしまいましたので、2回目以降に改めて記させていただきます。

2018年06月20日