松帆神社ブログ第10回・松帆神社を建てたお殿様の秘密

松帆神社を建てたお殿様・正井将監

松帆神社の創建は、御由緒のページにも記載のある通り応永6年(1399年)と記録が残っています。元々は東浦一帯でも一番北部にあたる楠本村の山中に、楠木正成公の家来 吉川弥六達が、正成公が日々尊信されていた八幡大神の神璽(文殊)を御神体とした祠を建て、その御神徳が評判となり現在の場所に奉遷された…との経緯が伝承されていますが、それに深く関わり当時の浦村(現在の淡路市浦)・来馬村(現在の淡路市久留麻・仮屋)を中心とした東浦地域一帯の氏神とする事を主導したのが、当時の領主・正井将監(まさいしょうげん)です。

※(注):正井将監には「向井将監(むかいしょうげん)」という別名もあるようですが、江戸幕府の船奉行として有名な向井将監とは全く関係がないようです。

正井将監の居城は、現在の神戸淡路鳴門自動車道の東浦IC付近にあったそうで、現在も「城の土居」「向井殿」と呼ばれる遺構が残っています。いずれも、まだ本格的な山城が築かれる前のもので、脇を流れる浦川と周囲を巡らした濠に囲まれた小高い丘の上に居館があったようです。

◆「城の土居」 ※現在の淡路市浦 小田(こだ)・奥地区にあります

 

「向井殿」 ※「城の土居」のすぐ東側・向かいにあり、正井将監が住んだ、もしくは一族が住んだとも言われ、詳細は不明です

 

東浦一帯にこれだけの居城を持ち勢力を誇った正井将監ですが、現存している資料では正確に何時ごろからこれだけの領地を治めたのか分かっていません。ただ、室町幕府の治世の下、南朝方の象徴でもある楠木正成ゆかりの神社を創建するとは、何とも思い切った行動ではないでしょうか?しかも、当時の淡路島(淡路国)は、室町幕府の管領(かんれい:足利将軍家を補佐する最高の役職)であると同時に四国全体と淡路国を領地として治めた重要人物・細川頼之(よりゆき)の支配下にあったのですから…。

正井将監の秘密

実は、正井将監の末裔・正井家に伝わる文書に、にわかには信じ難いような正井将監の出自が語られているのです。その中で、正井将監は元の名を「菊池能平(よしひら)」と言い、南北朝時代の南朝の武将として湊川の戦いにも参戦し、その後領地のある九州の肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を中心に九州南朝軍として戦った武将「菊池武重(たけしげ)」の孫であると書かれているそうです。

菊池武重は、湊川の戦いでの楠木正成の戦死・その後の新田義貞軍の北陸への敗走という逆境下で後醍醐天皇と行動を共にし、一時足利尊氏に後醍醐天皇と共に捕らえられましたが、単身脱出し九州に戻りました。その過程で、武重の孫がいかにして淡路北部の領主になったのか…不明な事ばかりですが、そもそも足利幕府の世の中で南朝方と言ってよい領主が京都に近い淡路島にいた事が驚きです。

ただ、正井将監のこうした出自・背景を踏まえると、南朝方の英雄である楠木正成ゆかりの八幡神社創建に尽力したのは大変自然な事に思われます。実は、松帆神社は楠木正成公ゆかりの神社である…という神社に残る伝承の他に、胞洲誌という古文書には「応永6年時の城主向井(正井)将監、男山より勧請、面々氏神として崇め祀る」との記述もあるそうなのですが、これは恐らく室町幕府や細川家に向けた偽の報告がそのまま残ったものであると思われます。

また、調べていくと松帆神社が創建される応永6年(1399年)の頃までは、室町幕府は鎌倉幕府や徳川幕府とは比べ物にならない程、脆弱な体制であった事も分かってきました。最近、室町時代後期に発生した「応仁の乱」が話題になっていますが、室町時代の初期・いわゆる「南北朝時代」の室町幕府の内情も、応仁の乱当時に全く負けない位ダメダメなのです。その原因は、天皇が南北朝双方に立てられた事による権威の低下と、足利将軍家と有力武将による権力闘争です。

世に有名な「太平記」ではこうした部分にも言及があるのですが、一般に知られているのは湊川の戦いや楠木正成の長男・正行(まさつら:小楠公とも言われる)が討ち死にした四条畷(しじょうなわて)の戦いまでの辺りで、残りはほとんど誰も知らないのではないでしょうか?以下に南北朝時代の動乱の概略を記しますが、これだけでも当時の混乱ぶりが想像できます。

 

<南北朝時代の主な戦い・動乱>

<延元元年(1336年)>

湊川の戦いの後、後醍醐天皇は京都に入った足利尊氏に一旦降伏するが、吉野に逃れ南朝を開く

<正平3年(1348年)>

四条畷の戦いで、楠木正行(小楠公)はじめ南朝の主要な武将が戦死

<観応2年(1351年)>

観応の擾乱(じょうらん):室町幕府の政治面のトップを担っていた尊氏の弟・直義(ただよし)と軍事面トップの足利家執事・高師直(こうのもろなお)が対立、師直が軍事クーデターで尊氏の屋敷に逃げ込んだ直義を包囲、争乱を納めるべく直義は出家。これを見て尊氏の子ながら直義の養子となっていた・直冬(ただふゆ)が九州で南朝方と結んで勢力を拡大、直義も京都を脱出して還俗し南朝に寝返る。足利尊氏、二代将軍義詮、高一族を中心とした幕府軍は直義の元に集まった南朝軍に敗北し、和議の条件として高師直を始めとした高一族を罷免。高一族は京都に護送途中に惨殺される。

その後、直義の報復と勢力拡大を恐れた尊氏は、直義の後ろ盾となっていた南朝を懐柔し直義追討の綸旨(りんじ)を得るべく南朝に降伏し、一時的に北朝の天皇が廃された。直義は鎌倉に逃れたが降伏、間もなく病死。(毒殺の疑いあり)

一方で増長した南朝軍は京都に侵攻し、北朝の光厳上皇や皇太子、三種の神器を当時の南朝の本拠・賀名生(あのう)に拉致してしまうが、室町幕府軍に駆逐され南朝軍は賀名生に撤退。一時的な南北朝統一は破談となり、幕府側は再び北朝の天皇として後光厳天皇を三種の神器なしで擁立。

<文和4年(1355年)>

直義死去後、九州から落ちのび石見に勢力を持っていた足利直冬と南朝方が手を組み京都を奪還するが、幕府軍に攻め返され敗走。

<康安元年(1361年)>

2代将軍義詮の執事・細川清氏が義詮との対立を経て反乱、南朝方に寝返る。南朝方の主力 楠木正儀(まさのり・正成の三男)や清氏の従弟で当時の淡路国守護であった細川氏春と共に京都に侵攻するが、幕府軍の反撃により逃亡先の讃岐で従弟の細川頼之に攻められ戦死。細川氏春は降伏した為、罪を許され淡路国守護に復帰。

<康暦元年(1379年)>

3代将軍義満の後見人であり、将軍就任後は将軍を補佐する管領に就任した細川頼之に反抗する勢力がクーデターを起こし、義満の花の御所を包囲して頼之の罷免を要求、認めさせた。頼之は出家し、本拠地の四国に戻った。

<康応元年(1389年)>

美濃・伊勢国の守護大名である土岐康行の反乱が鎮圧される。

<明徳2年(1391年)>

摂津・但馬・山城国の守護大名である山名氏清らの反乱が鎮圧される。

<明徳3年(1392年)>

南朝方の武将・楠木正勝(正儀の子)が幕府軍の追討を受け敗走、戦力のなくなった南朝方は三種の神器を返還する事に合意。56年ぶりに南北朝の分裂状態が解消された。

 

以上ですが、どうでしょうか?これだけ幕府が揺らぐような事態が連続していると、淡路の片隅に南朝方の領主がいても年貢さえきっちり納めているのであれば、不問に付されても不思議はありません。しかも、淡路国守護の南朝方への寝返りもあって、淡路島は一時ではあるものの南朝の勢力圏に入っているのですから尚更です。

領主 正井将監の退場

ただ、3代将軍義満の代になり、徐々に室町幕府の統制も強まり、四国全体と淡路国を統括する細川家の管理も厳しさを増したようでもあるのです。正井家文書には、明徳元年(1390年)に細川頼之の下知(命令)に従わなかった正井将監が処罰を受けそうになったが、足利尊氏の三十三回忌の特赦として許された…との記述があり、統制強化を裏付けています。

1399年の松帆神社創建以降に 正井将監は領主としての任を解かれ、その後は浦村より更に山側に入った白山村の庄屋に任命され、代々庄屋の家系として白山地区に根を張ることになるのです。

こうして見てきたように、正井将監が東浦の地に権勢を誇ったのは限られた期間ではあったようですが、松帆神社以外の神社創建にも尽力したとの伝承が残っており、その影響力は大きなものであったようです。

また、正井将監は松帆神社や他の神社創建にあたって、その場所決めや配置に非常にこだわったのではないか…と思われる状況証拠が多数残っているのですが、こちらについてはまた別の機会に…。

【参考文献】「東浦町史」(東浦町史編集委員会著)

2017年05月19日