兼務社・伊勢久留麻神社

【兼務社】伊勢久留麻(いせくるま)神社

<御祭神> 大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)  ※天照大神の別称と言われる

<相殿>   漢織姫尊(あやはとりひめのみこと)

<社格>   延喜式・式内社(式内小社)/淡路国三の宮   ※明治以降の神社制度においては「郷社」格

 

 

<御由緒>

江戸時代に徳川幕府により神道の総本部的地位を与えられた京都・吉田神社の神祇博士・臼井武祐の説によれば「第三十代敏達(びだつ)天皇の御代(西暦572~585年の間か)に伊勢国奄芸郡(あんきぐん)の久留真(くるま)神社の御祭神を遷せるものなるべし」とされているが、この説が記載されている「淡路常盤草」の文中でも「然しこの本拠覚束なし」と締め括られている。また、主祭神である大日孁貴尊についての記述はなく、伊勢久留麻神社に鎮座されている由緒については詳細不明である。

この為、創建は少なくとも1440年以上前と考えられる。

延喜式神名帳においては、淡路国十三座(大二座/小十一座)の中に数えられ、「大二座」とされている「淡路伊佐奈伎神社(名神大社・淡路国一之宮)」※、「大和大國魂(やまとおおくにたま)神社(名神大社・淡路国二之宮)に次いで小社十一座の筆頭に記載されている事から「淡路国三之宮」と呼ばれている。

※現在の伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)

淡路島北部の仁井出身の幕末の高名な国学者・鈴木重胤(しげたね)をして「淡路島内においてはこの神社ほど由緒正しき神社はない」と言わしめたと伝わる。

(注)当然、淡路国一之宮の伊弉諾神宮、二之宮の大和大國魂神社は別格としての重胤先生のご発言であろう

 

【参考】御由緒についての考察

ちなみに久留真神社は現在三重県鈴鹿市白子に鎮座されているが、その御祭神は大巳貴尊(おおなむちのみこと)、相殿に須世理姫尊(すせりびめのみこと:大巳貴尊の妻)と漢織姫尊となっている。

久留真神社社伝によれば、第二十一代雄略天皇の御代(西暦458~479年の間か)に呉の国(中国)から来日し、勅命に従って伊勢国に紡績や衣縫(きぬぬい)の技術を伝えた漢織姫とその一族の多大な功績を讃えるべく神様として相殿に合祀したとの事である。

この事から、淡路島の現在の東浦の地に伊勢国から紡績・衣縫技術が伝えられた際に、漢織姫尊が紡績・衣縫の神様として分祀され大日孁貴尊の相殿に鎮座されると共に、「伊勢の久留真神社の御祭神をお遷しした」事を表すべく「伊勢久留麻神社」という名称になったものと推察される。

この点を踏まえると、「伊勢久留麻神社」と名付けられる前、大日孁貴尊が一柱のみで鎮座されていた神社自体はそれよりかなり前から存在していたと考えるのが自然である。

前述の通り、大日孁貴尊は天照大神の別称である事から、伊勢久留麻神社となる以前には、太陽神である天照大神をお祀りする場所、もしくは太陽信仰の斎場といった位置付けの場所であった可能性が高い。

<祭典>

例祭(春祭)    五月五日

勤労感謝祭(新嘗祭) 十一月二十三日

節分祭        二月三日

この中でも五月五日に執り行われる例祭はGW中という事も手伝い、五台前後の布団太鼓(淡路のだんじり)が練り込みを行う横で多数の露店が立ち並び大勢の参拝者・観光客で賑わいを見せる。

 

 

また、大日孁貴尊・漢織姫尊のいずれも女性の神様と考えられている為、神幸祭の二対の神輿は片方が大厄の厄年男性(数え四十二歳)が担ぎ、もう一方は「ギャル神輿」と称して地元の東浦中学校の三年生女子が担ぐのが習わしとなっている。

 

<御朱印>

伊勢久留麻神社は松帆神社の兼務社であり通常は神職が不在の為、下記の伊勢久留麻神社御朱印は松帆神社社務所にて授与しております。お手数ですが、松帆神社までお越し下さい。

また、令和2年6月より御朱印のデザインを一部変更し、社紋である十六菊紋と左三つ巴紋を加えた格調あるものといたしました。初穂料は500円です。

 

<アクセス・駐車場>

【住所】〒656-2311 兵庫県淡路市久留麻字神田2033

【周辺地図・順路】

◆神戸淡路鳴門自動車道・東浦ICを下り海側(東側)へ左折、道の駅東浦ターミナルパーク前の浦交差点を右折し国道28号線を3分ほど道なりに南下。角に山本光学㈱の青い外壁の工場とファミリーマート久留麻店のある久留麻交差点に至ると伊勢久留麻神社の白い神明鳥居が見えます。

 

【駐車場所】

駐車場所については下記を参照下さい。鳥居を入ってすぐの場所は近隣の方々に駐車場として使用いただいておりますので、駐車なさらないようお気を付け下さい。

 

【連絡先】松帆神社社務所 (TEL)0799-74-2258 (神職直通)090-9339-1000