松帆神社ブログ第13回・家紋から読み解く「松帆神社の菊一文字の元の所有者とは?」
先だっての平成29年10月1日(日)の例大祭において、年1回の一般公開を行った松帆神社の名刀「菊一文字」ですが、外気に触れ傷みだすのを少しでも避けるべく、10時~16時の一般公開の時間が終了すると神職が急いでマスク・手袋をして片付け、手入れの後 白鞘(しろさや:刀剣の保管用の鞘)に納めます。同時に展示していた柄(つか)、鍔(つば)、鞘(さや)の拵(こしらえ)一式も、同時に片付けて専用の袋に納めます。
(参考)<太刀の拵の部位名称> ~出典:「重要文化財27・工芸品Ⅳ」(毎日新聞社刊)~
従来は急ぐあまりにじっくりと拵の細部を眺める機会がありませんでしたが、今年はたまたま袋に納める前に柄の先端の「柄頭(つかがしら)」と手元の「縁金物」の部分に彫り込まれている2種類の家紋を撮影する事ができました。
※柄頭は「頭」、縁金物は「縁」と呼ぶ場合もあります(特に、太刀より短い室町時代以降の刀剣「打刀(うちがたな)」において)
<松帆神社の菊一文字の柄頭>
<菊一文字の縁金物>
宮司によると、松帆神社の菊一文字の柄は大変傷みが激しく、柄に巻かれていた黒鮫皮だけでなく柄の握りの部分の木材もボロボロになっていた為、1999年(平成11年)の松帆神社600年大祭に合わせて、専門家に修復をお願いしたそうです。
それもある意味当然で、松帆神社の菊一文字の拵全体が約500~680年前のものだからです。
※「日本刀重要美術品全集 第4巻」においては「室町時代末~安土桃山時代のもの」とされていますが、600年大祭の際の修復でお世話になった専門家の方は「南北朝期のものではないか」との見立てだったそうです。刀身は鎌倉時代前半作の為、約800年前のものです。
※黒鮫皮:刀剣の柄の部分に滑り止め兼装飾用として用いられる東シナ海等に生息するツカエイ等の皮を、黒漆を塗って補強したもの
※金銅:銅の下地に鍍金(ときん:金メッキ)を施したもの
600年大祭での柄修復の際にも、柄頭だけはあえて修復せずオリジナルの状態のまま残したそうですが、金銅(こんどう)作りの跡が残る柄頭とそれに合わせた意匠の縁金物には、ご覧のように「十六弁の菊紋」と「桐紋」(中輪に五三の桐)が彫り込まれています。
上の写真では家紋部分が薄れて見にくいですが、下のように画像で見ると皆さん「あ、見た事あるある」と思われるのではないでしょうか?
<十六菊紋>
<中輪に五三の桐紋>
刀剣の拵に入れられた家紋の意味とは?
ご紹介した松帆神社の菊一文字の柄頭・縁金物のように、刀剣の拵の各部分には家紋が彫り込まれたり、描かれている事がよくあります。いくつか事例をご覧いただきましょう。
<金梨子地糸巻太刀(きんなしじいとまきたち)の柄まわり> ~出典:「図説 日本刀大全」(学研パブリッシング刊)~
上の太刀は、庄内藩藩祖の酒井忠次が、天正10年(1582年)武田勝頼討伐の軍功により織田信長より拝領したもので、元の所有者である織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭から拝領した「五三の桐紋」が各所に散りばめられています。
<井伊直弼使用の打刀の柄まわり> ~出典:「図説 日本刀大全」~
この打刀は、江戸幕府末期の大老で彦根藩主・井伊直弼のもので、井伊家の家紋である「彦根橘紋」があしらわれています。
<彦根橘紋>
以上の例でご覧いただいたように、刀剣の拵に入れられた家紋は所有者を表すものとなっています。という事で、松帆神社の菊一文字の柄頭・縁金物に彫り込まれた「十六弁の菊紋」「五三の桐紋」は本来の所有者の家紋であると考えるのが自然でしょう。
菊紋とは?
日本で家紋の元になる文様を付け始めたのは11世紀後半の平安時代中頃からと言われています。最初は、公家が自分の輿車(よしゃ)を区別し装飾したり、衣服の文様に用いたりといった用途から発展したそうです。その中で、公家は自分の子孫にも特定の文様を伝えるようになり、家紋が成立していったと言われています。家紋は衣服や調度品、屋敷の瓦等にも用いられ、武士もそれにならって自家の家紋を定めるようになっていきました。
そうして成立した数ある家紋の中でも、最も特別で高貴な家紋が菊紋です。何故なら、菊紋は皇室の家紋であり、日本国を象徴する紋ともなっているからです。海外旅行された事がある方はご存知ですよね?
菊という植物そのものは、古代から中国においては神仙の霊草とみなされて、延命長寿の薬としても使われていました。
日本でも遣唐使がこの文化を持ち帰った奈良時代末期以降、整然と並んだ多数の花弁から連想して「繁栄の象徴」「気品ある花」として菊を鑑賞するようになり、平安時代末期には公家の間で菊の文様が衣服等に盛んに使われるようになりました。この頃は、まだ菊紋は皇室専用ではなかったのです。
これが変わったのが、菊一文字の成り立ちにも深く関わっておられる後鳥羽上皇の時代からです。後鳥羽上皇は特に菊花を好まれ、十六弁の菊紋を御服や輿車だけでなく、自ら鍛えられた刀剣(菊一文字もその中の一つ)や懐紙にまで付けられたそうで、それを見た臣下達が次第に菊紋の使用を控えたため、結果的に菊紋が天皇家専用の家紋となっていったのです。
その後、南北朝時代以降は功績のあった公家や武家に恩賞として天皇家より菊紋が下賜されるようになり、次第に用いる者が増加していきました。室町時代後半以降は足利将軍家から功績のあった武将に下賜されるケースもありました。
江戸時代に至っては天皇家の権威低下を狙った徳川幕府の方針で、一般庶民までもが菊紋を使用するようになりましたが、明治維新以降に再び皇室専用の紋と規定され使用が制限されました。昭和22年には菊紋使用制限の法令が失効した為、現在は菊紋の使用制限はありませんが、過去の経緯も踏まえ「菊紋、特に十六弁の菊紋は天皇家の家紋」というのが、家紋にある程度詳しい方の共通認識でしょう。
桐紋とは?
桐は古代中国において吉兆の象徴である伝説の鳥・鳳凰(ほうおう)が宿る木とされ、鳳凰の食べる実をつけるとされた竹と合わせて「桐竹鳳凰」の3点セットで文様化されて9世紀初めの嵯峨天皇の頃には天皇の御袍(正式な衣服)にも使用されていたようです。
そこから転じて、後鳥羽上皇の時代までには菊紋より先に、桐紋が皇室の紋となっていたと見られます。皇室の桐紋とされたのは、三つある茎に描かれた花の数で区別された「五三の桐紋」「五七の桐紋」の二つです。
<五三の桐紋>
<五七の桐紋>
当初は五三の桐紋のみであったようですが、後に五七の桐紋が追加され最終的には五七の桐紋の方がより上位とされたようです。
また、桐紋は後醍醐天皇の頃(南北朝時代)までは菊紋と共に皇室専用の紋として位置付けられていたようですが、その後武家や公家に恩賞として下賜される事が続きました。戦国時代以降は、下賜された武将が更に家来に褒美として与えるに至って、ごく一般的な家紋になっていったようです。江戸時代には庶民にまで使用が拡がり、現在では貸衣装に付いている家紋の大半は桐紋とそのバリエーションだそうです。また、五七の桐紋は日本政府の紋章としても使われており、ご覧になった方も多いかも知れません。
<日本政府の紋章(五七の桐紋)>
南北朝時代~安土桃山時代までに「菊紋」「桐紋」両方を使えた人物は?
ここまでは菊紋と桐紋の歴史を簡単にご紹介してきましたが、内容を総括すると、松帆神社の菊一文字の拵が作られたと思われる南北朝時代(1336年~)から安土桃山時代(~1615年頃まで)までの間に、「十六弁の菊紋」「五三の桐紋」を共に使う事ができたのは、まずは歴代の天皇に他ならない事にお気付きいただけたかと思います。
但し、この約280年間の間に、例外的に2人の人物だけが「菊紋」「五三の桐紋」の両方を拝領し、自由に使う事ができたのです。
【候補者その①】足利尊氏(及びその直系子孫である足利将軍家)
<足利尊氏図(集古十種所蔵)>
松帆神社と縁の深い楠木正成公とは宿敵的な位置付けにある足利尊氏ですが、鎌倉幕府を倒し建武の新政を打ち立てるにあたっての功労者として後醍醐天皇より最も手厚く処遇されたのは尊氏でした。尊氏は数々の所領を与えられたり、後醍醐天皇のお名前の「尊治(たかはる)」の一字を与えられて「高氏」から「尊氏」に改名しただけでなく、恩賞の一つとして「菊紋」「桐紋」を与えられたと伝わっています。
従って、同じく拝領したり独自に入手したものであろう菊一文字の刀身に合わせて菊紋・桐紋入りの拵を自ら作った…と考える事もできるのですが、様々な理由から足利尊氏が所有者であった可能性は極めて低いと思われます。
【理由①】
足利尊氏やその子孫の歴代足利将軍家が、都から遠く離れた淡路島にある、南朝軍の象徴的存在である楠木正成ゆかりの神社にわざわざこれだけの宝刀を寄進するとは考えにくい。
【理由②】
松帆神社側にも、室町時代中頃からは神社の設備更新等のトピックが記録として残されているが、もし時の権力者である足利将軍家から宝刀を寄進されたら間違いなく記録が残る筈。
視点を変えて考えると、元は後醍醐天皇のもので、褒美として菊一文字を拝領した尊氏が更にそれを楠木正成に贈った…という可能性もなくはありません。最終的には敵味方となりますが、足利尊氏が南朝方の武将の中でも楠木正成だけは例外的に高く評価していた事が、足利将軍家の視点で描かれた軍記物語「梅松論」からも伺えます。
ただ、後醍醐天皇の部下として尊氏と正成が共に建武の新政を支えたのは実質1年程度で、それ以降は敵対関係になっていきます。また、源氏の頭領としての尊氏と元は河内の土豪であった正成の間には大きな身分差がありました。正成がいかに鎌倉幕府打倒の真の功労者とは言え、尊氏 ⇒ 正成の刀のやり取りがあったと考えるのは少々無理があるかも知れません。実際にそういうやり取りがあったという古文書でも出てきたら本当に凄い事ですが…。
【候補者その②】豊臣秀吉
<豊臣秀吉図(集古十種所蔵)>
次に、菊紋と桐紋を自由に使える事ができる人物として挙げられるのが、かの豊臣秀吉です。秀吉は羽柴秀吉時代に、織田信長から「五三の桐紋」を褒美として与えられています。(前述の通り、織田信長は足利義昭から拝領)
後に秀吉が近畿・四国を平定し関白の地位についた後、1586年に豊臣朝臣の姓を後陽成天皇から下賜されますが、合わせて「菊紋」「五七の桐紋」を拝領しました。秀吉はそれまで沢潟(おもだか)紋を使用していたそうですが、以降 菊紋や桐紋を自らの衣服や所有物、建物や城の外装にまでどんどん使用していったそうです。
<沢潟(おもだか)紋>
また、秀吉は部下や戦功のあった武将に桐紋をどんどん褒美として与えましたが、結果として桐紋がありふれたものになってしまった為に、自分用のオリジナルデザインの桐紋「太閤桐」を新たに作った程でした。
<太閤桐>
また、松帆神社の菊一文字の拵の本来の姿も、秀吉所有者説を想起させるようなものであったのです。現在の菊一文字の拵は一見したところ黒一色ですが、「日本刀重要美術品全集 第4巻」においては「拵は鞘(さや)を金銅板金で包んで云々~」と書かれており、鞘の部分が鍍金による金塗りであった事が伺えます。
こちらが、現在の菊一文字の拵。
仮に鞘と柄頭が金銅作りの金塗りだったとすると、こうなります。(色塗りが拙いのはご容赦を…)
いかにも派手好き、キンキラキン大好きで知られた秀吉っぽい見映えです。ですが、やはり秀吉が所有者であった可能性も低いと言わざるを得ないと思われます。
【理由①】
(足利尊氏説と同じく)時の最高権力者 秀吉が淡路島にある小さな神社にこれだけの刀を寄進する理由がない。
※秀吉は京都の愛宕神社に重要文化財にもなっている名刀「二つ銘則宗」を寄進する等、有力神社に対しては刀剣を寄進した記録が残っています。
【理由②】
(足利尊氏説と同じく)神社側の記録に一切残っていない。秀吉からの寄進といった大ごとであれば記録に残らない筈がない。
残る可能性としては、秀吉が所有していた菊一文字を部下に褒美として与え、その部下がそれを松帆神社の前身の八幡宮に寄進した…というケースですが、秀吉が関白になって以降、淡路島の支配を任されていたのは賤ケ岳七本槍の一人 脇坂安治、姫路城築城で有名な池田輝政の三男 忠雄などですが、いずれも松帆神社との関係は歴史上伺えません。
唯一、松帆神社の記録上に接点が残っているのが、大坂夏の陣の功績で淡路島全体を領地として加増された阿波徳島藩の蜂須賀家です。秀吉の家来の一人として名高い蜂須賀小六(正勝)が元になっている阿波の蜂須賀家ですが、小六の祖先は楠木氏出身とも南朝方の武将であるとも言われており、楠木正成との関係を伺わせる一族なのです。
更には、正保元年(1645年)の拝殿再興の記録には「阿波の太守様より料材(建設用の材木)の寄進を受けた」という内容が残っています。これは、ちょうど小六のひ孫にあたる、蜂須賀忠英が当主であった時の事と思われます。
料材と共に、蜂須賀家の祖先とゆかりの深い楠木正成に関係する神社に秀吉から拝領した宝刀を寄進した…というのはストーリー的には有り得るのかも知れませんが、これも記録に残っていない以上 仮説でしかありません。
今回の結論とまだ見ぬ真実
ここまでの話をまとめると、結局 松帆神社の菊一文字の元の所有者は後醍醐天皇である、と考えるのが一番自然かと思われます。(それ以降の南朝方の天皇なども可能性があるのでしょうが、淡路島まで運ばれる理由・ルートがなかなか想像もつきません)
ただ、この結論さえも裏付けとなる古文書等がある訳ではなく、諸条件を整理した上での消去法に過ぎません。どこかに真実につながる文書や情報が眠っているのかも…。それが松帆神社から見つかるのか、どこか他の場所で見つかるのかは分かりませんが、まだ見ぬ真実が明らかになる日が来るのが楽しみです。
<今回の参考文献>
「菊と桐・高貴なる紋章の世界」 額田巖著 (東京美術刊)
「図像化された日本文化の粋・家紋の文化史」 大枝史郎著 (株式会社講談社刊)
「日本の紋章」 (ピエ・ブックス刊)