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松帆神社ブログ第5回・刀剣の聖地 備前長船刀剣博物館

松帆神社ブログ第5回は、刀剣に詳しい方なら皆さんご存知の岡山県東部の備前の地に建つ「備前長船刀剣博物館」の訪問記です。長船の地は古くは備前国邑久郡(おくぐん)、今の瀬戸内市にあり岡山三大河川 吉井川流域に開けた地でありましたが、鎌倉時代初期より刀剣鍛冶の集団が集まり「長船派」として全国に名を轟かせました。

松帆神社の社宝・菊一文字の作刀に深く関わった名刀工・則宗も長船の福岡地区に自らの刀工集団・福岡一文字派を興したと伝わっており、菊一文字にとっても非常に縁の深い地という訳です。

備前長船の地までは、松帆神社の近くの東浦ICから一部高速・大半を国道2号線を通って約2時間弱の行程で到着しました。吉井川の近く、田園と住宅が混ざり合うよくある地方の風景の中に刀剣博物館は建っておりました。

 

備前長船刀剣博物館は、それ単体だけではなく、実際に日本刀を製作する鍛刀場や、刀身の研ぎや鍔(つば)・鞘(さや)の製作等を直接見学できる工房、お土産屋さんや刀剣直売所などを併設しており、その全体を合わせて「備前長船刀剣の里」と呼ばれています。中でも、実際に目にする事は大変難しい刀剣の火入れ・鍛刀の様子を月2回公開されており、刀剣に興味がある方にはたまらない場所となっています。

訪問当日は鍛刀公開の日ではありませんでしたが、刀の原料になる玉鋼(たまはがね)を高熱で熱する作業を行っておられた為大変興味深く拝見しました。

 

※上は鍛刀場や各工房の様子。入館者は自由に見て回る事が可能。下は鍛刀場で玉鋼を熱する準備をされている様子。右下の水槽の中に投入しようとする玉鋼が置いてあります。

 

また、刀剣マニアを自認するような方以外はなかなか普段は目がいかないような、鞘(さや)や柄(つか)等、個別の部位に関する作業や展示を各工房で見れるのも刀剣の里ならではではないでしょうか?ここを見て回れば、刀剣の知識を一通り身に着けられる位の情報量です。

 

※上は鞘(さや)の工房で作業されている様子。下は、刀の柄(つか/刀を握る部分)に巻き付ける鮫皮(サメと言いながら本当は東南アジアの海域に生息するエイの仲間の皮だそうです)。

 

さて、刀剣博物館の中に足を運びますと、一階・二階には備前の名刀剣だけでなく、貴重な刀剣が多数展示されております。また、過去にはエヴァンゲリオンやゲームとコラボした企画展を開催されるなど、話題作りにも心を砕いておられるようです。大変残念ながら、一階・二階の刀剣の展示物については「撮影禁止」という事でしのでここではご紹介できません。残念。

代わりに…という訳ではありませんが、刀剣博物館の一階には刀剣に詳しくない方にも刀剣の作刀の流れを分かり易く解説してくれる展示コーナーがあり、こちらは撮影OKでした。

 

作刀の手順を大変分かり易く解説したパネルとビデオ上映で15分あれば誰でも刀剣がいかに作られるのか、一通り知ることができるようになっています。

 

 

 

また、刀身そのものだけではなく、刀身の研ぎの作業や、鞘(さや)や柄(つか)、鍔(つば)といった刀剣に関わる各部位の作成についての解説パネルもあります。

 

 

 

実は、この日に刀剣博物館を訪問させていただいたのは、こうした展示を見るのもさることながら、初心者にも刀剣の手入れ方法を分かり易く解説して下さる「日本刀手入れ講座」に参加する為でもありました。当日は岡山市にある高山刀剣研磨工房の福武審一先生が、本当に分かり易く、時には刀剣の素人は知らない裏話も交えながら一時間ほどレクチャーをして下さいました。

 

刀剣の手入れと言うと、大変敷居の高そうな話で、この講座を受講するまでは自分にできるのか…と半信半疑でしたが、守るべき手順を明確に示していただき、それをしっかり守れば決して困難な作業でない事がよく分かりました。こちらの講座は事前に予約するだけで参加料も不要ですので、刀剣を新しく購入してみようと思っておられる方、刀剣は持っていないけども扱い方には興味があるという方にもお勧めです。刀剣博物館のHPに開催日程が告知されていますので、ご確認の上 直接お申込みになって下さい。

実は今回この日本刀手入れ講座を受講したのは、これまで菊一文字の手入れをお願いしていた近隣の刀剣愛好家の方が体調を崩され、手入れに関しては自力で何とかしないといけなくなった為でありました。講座の中で、手入れ方法だけでなく道具の選定についてもアドバイスをいただいたので、早速淡路島に戻ってから神戸の刀剣専門店さん等で道具を揃えました。勿論、手入れもしたのですが緊張していて撮影の余裕がなかった為、こちらはまた別の機会にご紹介させていただきます。

 

今回、訪問させていただいて、書物を読んで一応知っていたつもりの刀剣の世界の知識が具体的な展示物を見せていただく事で有機的につながり、非常に有意義な時間となりました。日本の刀剣の世界においては正に聖地の一つとも言える場所だと思います。東京方面にお住まいの方はちと行くのが大変ですが、刀剣に興味があるのであればオススメです。学芸員さんとお話しましたら、これからも色々面白い企画展を検討されているようでしたので、私も折に触れてチェックしておこうと思っています。

2016年11月09日

松帆神社ブログ第1回・刀剣の世界における「本阿弥家(ほんあみけ)」の功績と影響

松帆神社HPを立ち上げてひと月を経ましたが、個別のコンテンツ、特に刀剣である菊一文字・歴史上の人物 楠正成公(大楠公)が関係する内容については、詳しい方以外は基礎知識がなく分かり難い面もあると思います。松帆神社神職当人でさえも、人様に語れるほど知識に深みが十分にあるとは言えませんので、神職本人が勉強・取材した内容を元に、これから月イチ程度のペースでブログ形式のレポートをさせていただければと思います。

まず第1回は、刀剣の世界において鑑刀(刀の鑑定)の宗家と呼ばれ、絶大な影響力を発揮してきた本阿弥家についてです。今回、勉強の為に5/21(土)に黒川古文化研究所で開催された「本阿弥家と名物刀剣」(川見典久研究員)という講座を受講しに行ってきました。黒川古文化研究所は、あかつき証券㈱の前身、黒川証券の創業一族である三代目・黒川幸七氏が所蔵の文化財を展示する施設として西宮市苦楽園の高台に昭和49年に設立されたものだそうです。(詳細は黒川古文化研究所HPをご確認下さい)

現地は西宮市内でも通うのが大変な学校の5本指には必ず入るであろう、長~い急坂の上にある苦楽園小学校・苦楽園中学・西宮北高校(ラノベ・アニメの涼宮ハルヒシリーズの舞台のモデルとなった高校です)から更に急坂を200m程上った所にあり、行くのは大変ですが眼下に芦屋浜や大阪平野を一望する素晴らしい眺めの場所にあります。 ※当日は駐車車両多数の為、HPトップの写真をお借りしました。

 

さて、本題の講座の内容について要点をまとめて…。

・本阿弥一族は元々鎌倉で刀剣の研ぎ、真贋判断を生業とし、足利尊氏と共に上洛。初代 妙本(みょうほん)は室町幕府の刀剣奉行となった。

・六代目 本光以降、名に「光」をつける習わしとなり、一族は今出川烏丸近くの上小川町付近に居住。豊臣秀吉政権下では刀剣極所(きわめどころ)という刀剣真贋判定の役目を与えられた。

・安土桃山~江戸初期に書家/陶芸家/芸術家として名を馳せた本阿弥光悦(こうえつ)【永禄元年(1558)~寛永十四年(1637)】は、そもそも鑑刀を生業とする本阿弥分家であったが、家康の信任を得て京都西北の鷹峯に領地を拝領し、一族や他の芸術家を呼び寄せ一大芸術村を作った。

・光悦は二代将軍秀忠の刀剣目利き指南役も務める等、幕府と本阿弥家の関係が深まった結果、本家は江戸に移住。

・一族は本家当主の元に定期的に集まり刀剣の真贋判定(惣談合)を行い、当主が最終的な判断をし「折紙(おりがみ)」という鑑定書を出した。(「折り紙付き」という慣用句の元ネタ) 折紙は黄金五枚以上の価値のある刀剣に対して発行され、折紙を発行した刀剣の内容・金銭価値といった詳細は本阿弥留帳(とめちょう)という記録簿に記されていたが、関東大震災の折に焼失した。

・一族は刀剣の真贋判断や研ぎ、修復といった本来の生業に加え、貴重な刀剣の探索・流通にも従事するようになり、刀剣に関して絶大な影響力を発揮するようになる。

・太平の江戸時代、刀剣は大名同士の贈答品に多く用いられたが、その金銭換算価値を知る必要があった事情もあり、本阿弥家の折紙が付く事が重要視された。ただ、時代が進むと折紙記載の金銭価値を水増ししたり、惣談合なしに分家が勝手に折紙を出すような事例が発生し、本阿弥家への批判を招いた。

・また、本阿弥家は刀剣の付加価値を高める為、研ぎ・修復の範疇を超えて「無銘の刀剣に金字・朱字で銘を入れる」「鎌倉期以前の長刀を当世風の外観にする為に磨上(すりあげ)※ する」等の刀剣改変を行った。 ※磨上:やすり等で刀剣の根元部分をすって刀身部分の尺を詰めた上で、根元の先端を切断し刀剣全体の長さを短くする事

・八代将軍 吉宗の命令により全国の名刀を探索し「享保名物帳」を作成、その過程で伊勢家所有の「小烏丸」、本阿弥家所有の「鬼丸」、愛宕神社所有の「笹丸太刀(名物二つ銘・俗称:二つ銘則宗)を上覧した。

…といった内容が、当日 川見研究員からあったお話でした。(その他書き切れていない内容も多々ありますので、気になる方は黒川古文化研究所HPの「刊行物案内」をチェック下さい。「古文化研究・第15号」内にこの講演内容に関する論文が記載されているようです。刀剣に関する更に詳しい情報を知りたい方は「名刀幻想辞典」という個人の方が開設されているHPをご覧になる事をお勧めします。)

講演をお聞きして、松帆神社の菊一文字も発見されたのが昭和初期ではなく、享保の頃であったら享保名物帳に載った可能性もあるのかしら…等と考えながら帰って参りましたが、「菊一文字」のページでも書いたように、当神社の菊一文字に対して本阿弥家の惣談合の結果出していただいた「折紙」が現存しております。以下の画像はそのコピーになります。 ※見易いように、文字記載部分のみ集めております

右から、「菊御作」(後鳥羽上皇作の御刀である) 「正真・長弐尺四寸七分之有」(弐尺四寸七分:約75cm) 「昭和八年 酉(とり)」「九月三日」「本阿 + 本阿弥家花押(かおう)」 と書かれています。

本阿弥家の歴史をこうやって振り返ると、プラスの面ばかりではないのでしょうが、本阿弥家が存在していなかったら、日本の刀剣の保存・価値伝承は今ほどうまく進まなかった可能性が高く、刀剣の世界におけるその功績は大です。当神社が所有する「本阿弥折紙」は八十三年前のものですが、それでも文化財としての重要性・価値を痛感せざるを得ません。菊一文字と共にしっかり守り、伝えていかねば…と決意を新たにした今回の講演会でありました。

2016年06月10日

松帆神社ブログ第2回・日枝神社所蔵「国宝 則宗」について

松帆神社ブログ第2回は、菊一文字の生みの親と言って過言でない鎌倉前期の名刀工・「則宗」作で、東京・赤坂の日枝神社所蔵の「国宝・則宗」についてです。

菊一文字は「菊御作」という言葉にあるように、後鳥羽上皇の作ではないのか?何故則宗が菊一文字生みの親なのか?と不思議に思われるかも知れません。当HPの「菊一文字」のページにもあるように、後鳥羽上皇に招集され共に鍛刀に励まれた名刀工の中でも筆頭御番鍛冶と言われたのが、刀工集団・備前福岡一文字派の祖と言われる「則宗」その人です。則宗は筆頭御番鍛冶として、皇位の紋である菊紋を銘に入れることを許可されたと言われており、「菊紋」の銘とと福岡一文字派の銘である「一」が彫られた刀を「菊一文字」と呼ぶようになりました。

※「一」「菊紋」の銘があり、「菊御作」とされる正真の「菊一文字」は当神社の菊一文字の他にも、天皇家御所蔵のもの(いわゆる御物の菊一文字)等が一般に存在を知られています。

「一」の銘を始めたのは則宗と言われており、その後 福岡一文字派は他の刀にも「一」の銘を入れるようになります。「菊紋」を入れる事を許されたのは、筆頭御番鍛冶としての則宗個人の功績ですので、「菊紋」「一」の銘という菊一文字の不可欠の要素に関わった則宗は、後鳥羽上皇と並んで菊一文字の生みの親と言って差し支えない訳です。

残念ながら、「則宗」本人の銘が切られた刀で菊紋の入った刀は現時点で存在が確認されておらず、関連書籍にも「則宗本人の銘と菊紋の入った刀が発見されれば間違いなく国宝級」と記述される程です。ただ、「則宗」銘だけの刀でも大変貴重なものであり、今回取材した日枝神社所蔵の則宗は国宝に、京都・愛宕神社に豊臣秀吉が献上した いわゆる「二つ銘則宗」(「備前国則宗」の銘があるが、「備前」の部分が消えかかり「○国」「則宗」の2つの人物の銘があるように見えた為「二つ銘」と呼ばれた刀)は重要文化財に指定されています。

さて、今回7月上旬に拝観に伺った日枝神社の則宗は、正保3年(1646年)に5代将軍綱吉の初宮詣りの際に、徳川将軍家から江戸・徳川家の氏神である日枝神社に奉納されたものです。奉納された当時は、広大な江戸城の南西・裏鬼門に位置した日枝神社はひっそりと荘厳に鎮座されていたのであろうと思われますが、現在は赤坂一帯の繁栄の中に負けじと威容を誇る社殿が建てられております。

 

国宝則宗を始めとした日枝神社の宝物は、昭和54年の江戸城御鎮座500年大祭を記念して建設された宝物殿に収蔵されています。今回は、本当に残念なことに宝物殿の中が「撮影禁止」となっておりました。中は、ほぼ小さな博物館・美術館といった様相で、しかも拝観料は無料ですので、是非機会があれば皆様も足を運ばれてはいかがかと思います。 ※宝物殿は火曜・金曜・日枝神社の祭礼がある日には閉館となりますのでご注意下さい

 

…という事で仕方なく、国宝則宗のパンフレットの画像を貼らせていただく次第なのですが、訪問当日は月曜の午前中という事もあり、宝物殿はたまたま1時間の間私のみの貸し切り状態でありました。ガラス越しではありますが、国宝をしっかりじっくり拝見する滅多にない機会となりました。

 

当然ながら、日本刀は工業製品ではなく、手作りの極み・匠の神業になる一品ですので、太刀姿は丁子乱れが少なくすっきりとした見映えである等、松帆神社の菊一文字とは細部が異なっておりました。ただ、長さ78.5cm と長く反りの大きい優美な刀姿は菊一文字との共通項を感じさせるもので、徳川家献上という由緒正しさとも相まって、国宝指定も さもありなん…と感じ入った次第です。

当日は、わざわざ淡路島から則宗を見に来た…という事で、宝物殿管理人様に色々と資料をお見せいただく等、温かいご配慮をいただきました。中々お会いする事もかないませんので、この場で御礼申し上げる無礼をお許し下さい。

<当日の刀剣関係の展示品>

【重要文化財」豊後国「行平」作 /【重要文化財】備州「吉次」作 / 【重要文化財】太刀 銘 高包 / 【重要文化財】銘 定利

刀剣以外にも、家康公の御朱印書や重要文化財クラスの収蔵品が多数あり、ヘタな博物館をはるかにしのぐ展示内容です

<今回ブログの参考文献・参考サイト>

「日枝神社の刀剣」(ミュージアム出版・加島進著)/「図説・日本刀大全」(学研)/ 名刀幻想辞典(webサイト)

2016年07月25日

松帆神社ブログ第3回・「夏越の祭り」「ござがえ祭りの夜店」レポート

松帆神社ブログ第3回は、恒例となっている年央のお祓い神事「夏越の祭り」と、こちらも第17回となり地域の夏祭りとしてすっかり定着した感のある「ござがえ祭りの夜店」のレポートです。

<夏越の祭り>

「夏越の祭り」とは、他の神社では新暦(現在の暦・カレンダー)の6月30日によく斎行されている大祓(おおはらえ)の神事に相当します。意味合いとしては、年明け以降知らずの内に身に付いてしまった罪・穢れ(けがれ)を祓い落とし、暑い夏以降の無病息災を願うもので、地域によっては旧暦の6月30日に相当する7月末に実施する場合がありますが、当神社では8月1日に実施する習わしとなっています。

松帆神社の夏越の祭りにおいても、大祓の神事によく登場する「茅の輪(ちのわ)」が社頭の主役を務めます。

 

茅の輪と並んで、この夏越の祭りにだけ登場するのが人形(ひとがた)です。 ※形代(かたしろ)と呼ぶ場合もあるようです

 

人形は干支の数だけ種類が用意されており、身に付いた罪穢れを拭ったり、身体の痛みのあるところ・気になる部分をさすり良くなるよう祈願したりした後、箱に戻します。ご参拝の方がお使いになり、皆の罪穢れを身代わりに吸い取った人形はお焚き上げされ罪穢れとともに天に帰ります。

地域の皆様にはお馴染みの夏越の祭りですが、一年の真ん中にあたる節目の神事として、にぎやかな夏祭りとは違った独特の風情を感じさせるものです。これからも夏の風物詩としてたくさんの方にお越しいただけるようしっかり守り育てて参ります。

 

<ござがえ祭りの夜店>

続いて「ござがえ祭りの夜店」のレポートです。「ござがえ祭り」とは、松帆神社や浦・楠本などの周辺の神社に古くから伝わる特殊神事で、旧暦の6月末の大祓の後に神様の御神座に敷いてある茣蓙(ござ)をお取替えして氏神様・鎮守の神様としての御神徳に感謝する夏祭りの神事です。従来はこの神事だけが行われていたのですが、17年前の2000年より阪神淡路大震災の影響で沈滞しがちであった東浦の地域を盛り上げる為、また子供達の夏の思い出づくりの為に地域の「夏祭り」を復活させよう…と有志が集まり「ござがえ祭りの夜店」がスタートしました。17年間苦労しながら継続する中で、地域の方々の間にも「夏のお祭り」として定着し多数の方にお越しいただくようになりました。

今年も例年と同じく、8月6日のござがえ祭りの神事の後、17時より祭りのメインイベントである夜店が始まり、17時半からは神社山門前にて奉納ステージイベントが、更に18時からはござがえ祭りに協賛いただいた方々にお渡ししていお楽しみ抽選券を使っての大抽選会が行なわれました。普段静かな松帆神社の境内ですが、今年は18店もの夜店に出店いただき大変な賑わいでした。子供達もお小遣いを持って夜店での買い物を楽しんでいました。

 

17時半からの奉納ステージイベントのトップバッターは「打越元久」さん。故やしきたかじんさんのお弟子さんで、ござがえ祭りの夜店にも何度も出演いただいています。今年も師匠譲りの美声を披露していただきました。当日は打越さんのステージ中に夕立が降り出したのですが、幸い大雨にはならず打越さんの歌声で払いのけられたかのように無事雨も上がりました。

 

続いては、地元出身のアコースティックグループ「森先生と私」。ござがえ祭りの夜店初登場でしたが、臆することなく ほっこり温かみのある演奏を披露していただきました。

 

ステージが進む間、山門の南側にあるお楽しみ抽選会場では抽選が始まり長蛇の列に。今年は恒例の特等賞・自転車に加え、発売後間もないゲームソフト「妖怪ウォッチ3」やグルメカタログギフト、ヘッドフォン等景品がグレードアップし、更に子供さんには妖怪ウォッチグッズをもれなくプレゼント…と盛りだくさんの内容でしたので、例年以上の盛況だったようです。また、抽選会場には女子プロ野球兵庫ディオーネの選手の皆さんにお越しいただきお手伝いをいただくと共に、ディオーネの出張ショップも開設してPRをしていただきました。 ※実は兵庫ディオーネさんは松帆神社から車で3分の東浦サンパークの野球場で毎日練習されており、東浦の地は地元同然なんです

 

 

 

ステージは進んで、プロジャグラー「ファイヤーここあ」さんの登場です。ここあさんは全日本や世大会でも優勝経験のあるトップジャグラーでいらっしゃるのですが、最近は火を使った迫力満点のパフォーマンスを関西中心に披露されている凄い方なんです。祭り会場に来られた方達はそんな方とは知る由もなし…、イケメンのお兄さんが何か始めるのかな~といった感じでしたが、いざパフォーマンスが始まると皆がどんどん引き込まれ最後は大変な盛り上がりとなりました。この分野でトップクラスの方の芸を間近に見られるのもござがえ祭りの夜店ならではですね!

 

 

 

 

 

続くステージは、創作沖縄エイサー(沖縄民謡)の「ティダくくる」さんです。神戸を中心に活動されているグループで、今回ござがえは初登場でしたが、沖縄太鼓と踊りを交えつつ、夏の沖縄に思いを馳せるような歌声とパフォーマンスを披露していただきました。

 

午後7時を過ぎるとさすがに祭り会場も夕闇に包まれてきます。そうすると、ござがえ祭りの陰の主役「川柳燈篭」が一気に存在感を高め始めます。この川柳は地元東浦中学の生徒さんや有志の方々が作られたもので、これもござがえ祭り恒例となっています。祭りに向かう道には川柳燈篭が飾られ、道を照らす…という趣向です。準備は本当に大変なんですが、やっぱりあるとないとでは大違い、夏祭りの雰囲気が高まります。

 

 

ステージはメインイベント、吉本興業さんの住みます芸人で、現在「淡路市勝手に応援隊」として淡路島・特に淡路市の盛り上げに尽力いただいている「かわばたくん」の登場です。当日はバルーンを使ったパフォーマンスでちびっ子達を巻き込んでステージを盛り上げていただきました。

 

続くセレモニーでは、門 淡路市長にご登壇いただきご挨拶をいただきました。淡路市にある淡路の一の宮・伊弉諾(いざなぎ)神宮が中核となった淡路の歴史遺産群が、本年「日本遺産」に選定された事を受け、淡路市を全国から訪れていただけるような地域にしていく熱い決意をご披露いただきました。更にその後には、兵庫ディオーネPRタイムとして選手の皆さんにも登壇いただき、生バンド演奏でディオーネ公式応援ソング「フルスイング」を会場全体で歌ってディオーネを地域全体でサポートするぞ…という盛り上がりを作り出すことができました。

 

 

ステージのトリは、ござがえ祭りの夜店奉納ステージのレギュラーメンバーと言って過言でない、地元のバンド「懐めろパラダイス」です。幅広い年代に楽しんでもらえるように…と、70~90年代のみんなが知っている懐かしい名曲を演奏していただき、祭りの最後を締めくくっていただきました。

 

地域の皆さんを始め、本当に多くの方々のご協力に支えられて、過去最高レベルの大変な盛況の中、事故もなく無事にござがえ祭りの夜店を終える事ができました。心より感謝申し上げます。来年の第18回は、更に皆さんに楽しんでいただけるような、他の地域からも是非行ってみたい…と言っていただけるようなものにすべく、関係者の皆さんと共に頑張っていきたいと思います。

2016年08月12日

松帆神社ブログ第4回・「菊一文字」よもやま話

松帆神社ブログ第4回は、松帆神社の社宝・名刀「菊一文字」発見当時や戦後混乱期の様子を伝える先代宮司の著作物を元に、今までほとんど表に出ていない裏話的なエピソードを紹介させていただきます。

※ちなみに先代宮司の書き残したものはコピーでしか残っていない為、正確な書名が判明しておりません。記載内容から、恐らく淡路島全体の各神社の詳細な歴史等を記した書物に、松帆神社の内容を寄稿したもののようです。(年代は昭和38~39年頃か?) 原典の詳細不明の点、何卒ご容赦下さい。

<菊一文字流出の危機!?>

では、ここからはその書物の内容の中から、菊一文字が松帆神社から流出する危機が二度もあった…というお話を抜粋してご紹介。

「この菊一文字について面白い話がある。それは当然あるべき松帆神社という座から離れようとした事で、率直に言うと人手に渡ろうとした事が二度ある。一度目はある人を介して由良要塞司令官(注1)が買い取りを依頼してきた時である。当時、昭和9年頃の事で、一般的には当社の菊一文字については誰も知っていなかった時分であったのに、恐らく神社の明細帳によってでも知ったのであろうか。由良要塞司令官と言えば少将級の人で、軍国主義華やかなりし当時としては飛ぶ鳥も落とす勢いであったし、菊一文字そのものも他の奉納刀と一緒に本殿の片隅にしまい込んであった訳であるから、総代としても大いに食指が動いたらしかったが、いくら何でも神社明細帳の財産台帳に載っているものを軽々に処分するまでには至らずそのままになってしまった。後で考えれば、この騒動がきっかけになって菊一文字 松帆神社にありという事が世に出る事になったのであるから、これも宝刀の霊力と言えば言えるかもしれぬ。」

(注1)「由良要塞」とは戦前、大阪湾防衛の目的で淡路島最南端の由良地区の山中、友ヶ島、和歌山の加太の山中等に設けられた帝国陸軍の要塞。

(以下の地図参照。淡路島北東にある青丸は松帆神社の位置を示す。)

Web上で確認できる情報を総合すると、昭和9年当時の由良要塞司令官は 清水喜重(よししげ)中将と思われる。(昭和8年3月就任、昭和9年12月異動)

 

「二度目は終戦の時で、今でこそ言えるが、占領軍の廃刀令(注2)には全くびくびくもので、恐らく他の誰もが同じ気持ちを体験したことだろう。他に数本あった奉納刀を人身御供のような形で供出したが、菊一文字だけは出さずにある場所にしまった。(注3) もし露見したら「これは御神体であって武器ではない」と言うつもりで多寡をくくっていた。この二度の危機をくぐった菊一文字に対して思うことは、名刀に霊力ありという事で、今般 図らずもアメリカより返還された照国神社の宝刀・国宗の場合に限らないという事である。」

(注2)昭和21年のポツダム勅令の中に含まれる「銃砲等所持禁止令」を指すと思われる。この時、貴重な刀剣の数々がアメリカを含め、国外に散逸したと伝わる。文中にある「国宗」(鹿児島・照国神社所蔵の国宝太刀)も国外に持ち出され、行方不明となったが、アメリカ人愛刀家ウォルター・コンプトン氏により発見され、昭和38年に返還された。  ※「国宗」関連の記述は照国神社HPより転載

(注3)当時、小学生の現宮司と先代宮司の二人で、大八車に菊一文字や他の宝物を載せ、山あいの白山地区の総代宅に片道3時間かけて隠しに行った…との事。

先代宮司の残した菊一文字に関する逸話は以上ですが、今では考えられない激動の出来事が当時にはあったようです。更に、文中にあったように昭和9年に清水中将からの買取要請が流れた後、「東浦の松帆神社に菊一文字あり」という話が洲本や福良(南あわじ市)にも伝わる中で、次に示すありがたい話もでてきたようです。

<淡路島挙げて「宝刀」を奉る>

当HPの「菊一文字」のページにあるように、菊一文字は発見されてから本阿弥光遜氏の鑑定を受け、本阿弥家として「真正・菊御作」の鑑定書(本阿弥折紙)をいただいたのですが、その日付は昭和8年9月となっています。この後、先代宮司が菊一文字を神社明細帳にも登録し、翌年には清水中将の買取騒動となる訳ですが、次のトピックとしては昭和10年5月の文部省からの「重要美術品」認定が挙げられます。

本阿弥家の折紙は勿論、刀剣の世界においては絶大な権威を持ちますが、江戸時代のように幕府の公的役職を兼ねていた頃と異なり、昭和の時代においてはあくまでも「専門家の見解」に過ぎない部分があります。ただ、文部省認定は国から公に認められたという事になる為、周囲の騒ぎも更に大きくなったようです。

5月の重要美術品認定を受けて、すぐさま本殿右脇にあった絵馬殿が現在の懐古館の位置に移設され、その跡地に宝物殿の建設が開始され、その年の11月には竣工したとの記録が残っています。この時、淡路島全島挙げて宝刀を新たな宝物殿に奉ろうという動きがあったそうで、当時 淡路島出身で中央政界において立身出世を成し遂げておられた永田秀次郎氏に、総代の代表が「宝物殿」の額の文字の揮毫(きごう)をお願いしに上京した…という話が伝わっております。

永田秀次郎氏は現在の南あわじ市倭文長田の出身で、大正~戦前にかけて三重県知事・東京市長(今の東京都知事に相当)・貴族院勅選議員・拓殖大学学長・拓務大臣・鉄道大臣など要職を歴任された方です。その一方で、「永田青嵐」のペンネームで多数の著作を残すなど、文化面にも通じた、淡路島史上に残る偉人と言えるでしょう。東京市長時代には、関東大震災からの復興に尽力をされたそうです。

 

◆昭和5年 永田青嵐名義で出版された著書『梅白し 青嵐随筆』内の写真より

永田秀次郎氏は南あわじ市、当時の三原郡の出身であって、本来は東浦の八幡宮・松帆神社とは縁もゆかりもない筈ですが、淡路島から菊一文字が出たという話を喜んでいただき、揮毫のお願いを引き受けていただいたそうです。  ※以下の画像の「宝物殿」の文字が永田氏直筆の文字から起こしたもの

 

今回は、従来はあまり表に出てこなかった70年以上前の菊一文字関連の逸話を振り返ってきました。こうやって書いていると、今現在、菊一文字が松帆神社にある事を当たり前の事と思わず、先代宮司の書き残した通り「宝刀たる霊力をもって松帆神社にお留まりになっている」と考え、有り難く思い全力でお守りしていかねば…と感じる次第です。

2016年09月21日

松帆神社ブログ第6回・社殿に息づく匠の技

今回の松帆神社ブログでは、松帆神社に訪れる方々は常に目にしておられるものの、残念ながらとても高い位置にあったり目につきにくい位置にある為になかなか注目されにくい、だけど見過ごしては勿体ない職人さん達の「匠の技」を取り上げます。

ご存知の方も多いと思いますが、戦前までの神社建築のほとんどが釘を一切使わない日本の木造建築の技術の粋を集めた宮大工の方々の高い技能によって成り立っていました。こうした技能の大半は屋根裏や土台の部分に潜り込まないと確認できない為、ご参拝の方々は勿論の事、我々神職でさえもなかなか実像を伺い知ることが出来ません。ただ、そうした類いまれな技能が表に出ている箇所があります。それは、神社の屋根周りの造作物です。

屋根と言えば瓦葺きが一般的ですが、一部の規模の大きい神社を除いて大半の神社も瓦葺きが主流です。松帆神社においても本殿以外の主要な建物は瓦葺きとなっており、この瓦の部分に瓦職人さんの技をしっかりと見て取ることができます。また屋根を支える木造の構造物には、微細な木造彫刻が施され宮大工の技術の高さを実感できます。松帆神社の拝殿や本殿の実例を見ながらご紹介していきましょう。

 

まずは、拝殿の屋根を正面から見上げてみます。正式には「入母屋造(いりおもやづくり)」という形式の屋根になりますが、やはり注目は屋根瓦の微細な装飾です。高さ7~10mはある部分ですので、肉眼では細かく確認することができません。こうして望遠レンズで拡大して見ていくことでその精巧さに改めて気付かされます。

 

中央の屋根の頂上部分に据えられる飾りの瓦は「鬼瓦(おにがわら)」と呼ばれ、「鬼師(おにし)」と呼ばれる職人さんが精巧な彫刻を彫るが如く整形して焼き上げていくそうですが、松帆神社では他の神社や寺院にも多く見られる「経の巻(きょうのまき)」と呼ばれる瓦が一番高い位置に据えられています。松帆神社の為に作られた経の巻ですので、中心には松帆神社の神紋である橘紋(たちばなもん)が描かれています。

 

その直下には、魔除けの意味を込めた唐獅子(からじし)の鬼瓦が鎮座します。こうして拡大すると、その生き生きとした描写に驚かされます。

 

屋根の最上部、大棟(おおむね)の部分にも龍の装飾が施され、両端には鯱(しゃち)が控えます。

 

これだけ精巧な彫刻を施した瓦を成形し焼き上げるには生半可でない技術を要することが容易に想像できますが、この拝殿の瓦は鬼瓦や通常の瓦も含め、全て「淡路瓦」で葺かれています。実は、淡路島は「淡路瓦」の名産地として愛知の三州瓦(さんしゅうがわら)、島根・石見の石州瓦(せきしゅうがわら)と並ぶ三大名産地の一つと言われてきたのです。

淡路島は瓦づくりに最適な粘土を産出する地域で、古くから瓦が作られていたそうですが、江戸時代初めに洲本市由良の成ヶ島に城を築くために播州の瓦職人が集められたのが現在の淡路瓦興隆の起点になったそうです。当時、重い瓦を大量に運ぶには陸路よりも海路・水路が有利という事もあり、近畿や瀬戸内一円に淡路瓦が広まっていったとの事。現在は南あわじ市を中心に多数の瓦業者さんがおられ、神社や寺院の屋根に多く使われる「いぶし瓦」ではトップシェアだそうです。

松帆神社の拝殿の屋根は、平成7年の阪神淡路大震災で傷み雨漏りがひどかった為、地域の氏子・崇敬者の皆様方の浄財により平成17年に全面改修したものです。耐熱性・対候性に優れるといういぶし瓦が全面に使われたそうで、すでに十年を超える年月が経過しても、しっかりとその美しさを保っています。

 

さて、屋根瓦の話ばかりしてきましたが、宮大工さんの仕事ぶりも見ていきましょう。拝殿の正面、鬼瓦の真下の部分の欄間(らんま)にはこちらも見事な龍が透かし彫りで彫り込まれています。

 

こちらは、流造(ながれづくり)の本殿の屋根の下支えの部分に施された装飾です。左端には、魔除けの獏(バク・夢を食べるという霊獣)が見られます。こちらも、外から見えることは見えるのですが、これだけはっきりと見ることができるのは本殿に近付くことを許された神職だけでしょう。

 

今回、松帆神社でご覧いただける匠の技…という主題でご紹介をしてきましたが、決して松帆神社だけが特殊な訳ではありません。皆さんのお宅の近くの神社・仏閣をもう一度注意深くご覧になると、今回ご紹介したものよりももっと凄い匠の技がご覧になれるかも知れません。

日本の伝統技術は本当に奥深い… 我々松帆神社の神職にとって本当に身近な社殿をこうやって注意深く見ていく中で改めて気づかされた次第です。

2017年01月25日

松帆神社ブログ第7回・「節分祭」レポート

松帆神社ブログ第7回は、毎年2月3日に斎行される恒例の「節分祭」のレポートです。

伝統行事が廃れていくとの嘆きの声が多い今日この頃ですが、節分行事は今でも「鬼は外、福は内」の掛け声での豆撒きや恵方巻など、根強く全国各地に定着している厄除行事です。厄除八幡・松帆神社においても、この節分祭は厄を祓う大事な冬の行事(といっても暦の上では翌日が「立春」で、二月四日からは春の扱いになるのですが…)として長年続けられてきました。

 

松帆神社の節分祭の主役の一つは、古い御札や御守などをお焚き上げし、その浄火にあたる事で厄を祓う「とんど」になります。本殿・拝殿から階段でおりた山門前の境内の広場に大きな穴を掘り、そこにとんどの元になる御札・御守・古木などを入れ夕方の訪れを待って火を入れるのです。

 

とんどの炎を合図代わりに、夕闇が下りてくる頃になると近隣の氏子の方々のお参りがどんどんと増えてきます。

 

お参りの方々の目当てはとんどの火だけではなく、拝殿の側にもあります。それは松帆神社節分祭のもう一つの主役と言ってもいい「破魔矢」です。破魔矢は正月の縁起物として頒布されている場合が多いのですが、松帆神社では節分祭にて厄除・開運の破魔矢を頒布させていただくのが習わしになっています。また、この節分に合わせて地元の中学校の生徒さんに破魔矢頒布を担当する巫女さんとして来ていただき、華を添えていただくのも恒例となっています。

 

 

実は、この巫女さんの破魔矢頒布場所とは反対側に、お参りの皆様の多くが目当てにしているものがもう一つあるのです。それが、こちらも恒例になっている甘酒のふるまいです。この甘酒は近隣の小田地区にある「保地味噌」さんより甘酒の元を仕入れて、当神社の禰宜が秘伝のレシピで毎年鍋に何杯も作る本格派です。甘酒自体が、食文化の変化の中で目にすることも口にすることも減ってきているのが現状ですが、こうした機会に色々な世代の皆さんに日本人が伝統的に口にしてきた冬の風物詩を思い出していただければと思っております。

 

夜の帳(とばり)が下り辺りが暗闇に包まれると、とんどの火は一段と目に映えその温かさはより強く有り難く感じられます。お参りされる氏子の皆様方から口々に「やっぱり八幡さんのとんどにあたらんと冬が越せんわ」と言っていただけるのが、祭りの運営に携わっている神社役員の皆さんと神職にとっては何よりも嬉しい一瞬なのです。

 

2017年02月12日

松帆神社ブログ第8回・御祭神の陵墓を訪ねて

今回の松帆神社ブログは、御祭神である八幡大神のお墓、応神天皇陵・仲哀天皇陵・神功皇后陵の訪問・参拝の様子をお届けします。

そもそも、「陵(りょう)」という言葉があまり一般的でない言葉なのですが、訓読みでは「陵(みささぎ)」と読み、広辞苑を引くと「歴代天皇や皇后、皇太后、太皇太后の墓所」とあります。現在、こうした陵墓(りょうぼ)には皇族のものも含まれ、宮内庁が一括して管理しています。その為、学術調査等は自由には行えず、調査する場合には宮内庁の特別の許可を取って慎重に行われているそうです。

陵墓自体は全国に分布し、近世の明治天皇陵は伏見に、大正・昭和天皇陵は東京・高尾にありますが、最も多く分布するのは過去に都のあった大阪南東部、奈良、京都等になります。今回訪れた三つの陵墓は、そうした陵墓が集積している羽曳野市周辺の古市古墳群(ふるいちこふんぐん)と奈良平城京跡周辺にあります。

更に、今回訪れる応神天皇陵・仲哀天皇陵・神功皇后陵には共通点があります。それは、皆さんも歴史の授業等で一度は耳にしたことがある「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」であるという点です。丁度、昔の鍵穴のような形をしたこの前方後円墳は、3世紀~6世紀の弥生時代末から古墳時代の間、多数造営されました。

古代の世界の他の地域でも、墳墓は王権の強大さの象徴として巨大なものが築かれましたが、前方後円墳においても同様で、五世紀に入ると 敷地面積ではエジプトのピラミッドよりも巨大な最大の前方後円墳、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が現れるに至りました。仁徳天皇陵は、墳丘自体の最大長が486m、高さは36m、濠(ほり)部分も含めた古墳全体での最大長は840mという数値を聞くとその巨大さが分かります。

 

仏教の伝来と浸透により、7世紀には巨大な墳墓を作る事が控えられるようになりましたが、古代の大和王朝の隆盛を示すまたとない事例として現在まで残っているのです。

それでは、実際に三柱の御祭神の陵墓の様子をご覧いただきましょう。

●応神天皇陵

応神天皇陵は通称名で、学術的には誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳という名称が付けられていますが、陵墓そのものの正式な名称は「惠我藻伏崗陵」(えがのもふしのおかのみささぎ)となります。

所在地は、羽曳野市と藤井寺市の境界に近い一帯に広がる古市古墳群の一角です。すぐ西にはお父上の仲哀天皇陵が、更に南にはおじい様にあたる日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓と伝わる白鳥陵古墳があります。

 

応神天皇陵の北側、台形の方墳側には宮内庁の管理事務所と陵墓の遥拝所が設置されています。実際に埋葬がされているのは円墳側で、方墳側では祭祀が営まれたという説があるそうで、前方後円墳の場合、遥拝所は常に方墳側の底辺にあたる場所の中央部に設けられているようです。

 

遥拝所からは、壮大な応神天皇陵の様子が伺えますが、それと知らなければ小高い丘としか見えない位の存在感に圧倒されます。

 

応神天皇陵の南側には、応神天皇のお墓である円墳を守るかのように、誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)が鎮座しておられます。誉田八幡宮は欽明天皇(在位:539~571年と伝わる)により建立され、歴代天皇も何度も行幸なさった由緒ある八幡宮です。

 

大きな拝殿の右奥には、応神天皇陵の南側からの遥拝所が設置されています。写真に見えるアーチ型の放生橋(ほうじょうばし)は、秋季大祭の折に神輿がこの上を通って応神天皇陵まで渡御する為に使われているとの事でした。

 

応神天皇陵は墳丘の最大長が425m、高さ36mと仁徳天皇陵に次ぐ大きさを誇りますが、実際にこうして現地で目にすると、これだけ巨大な陵墓を築いた古代の技術力や生産力の高さ、応神天皇に対する民の畏敬の念の強さを感じられた気がします。仏教の本格的伝来前、まさしく天皇が国を統べる現人神(あらひとがみ)・絶対至高の存在であったからこそ、これだけの大事業が成し遂げられたのだな…と1600年以上前の日本に思いを馳せたひと時でした。

●仲哀天皇陵

応神天皇陵のすぐ西にある仲哀天皇陵は、学術的には岡ミサンザイ古墳、正式には「惠我長野西陵」(えがのながののにしのみささぎ)という名称の陵墓です。

墳丘の最大長は245mと応神天皇陵よりやや小ぶり(全国にある前方後円墳内では16位)ですが、それでも遥拝所から間近に拝見するとその大きさには驚かされます。

 

仲哀天皇陵は応神天皇陵よりも濠の部分が大きく、現在も満々と水をたたえた状態で保存されている事が特徴です。濠の幅が最大50mあるそうで、そのことが墳丘のサイズ以上に陵墓全体の大きさ・雄大さを感じさせる要因になっていると感じました。

<下の写真は藤井寺市HP空撮写真より転載したものです>

 

●神功皇后陵

奈良は平城京跡の北側に位置する神功皇后陵は、学術的には五社神(ごさし)古墳、正式には「狹城盾列池上陵」(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)という名称で、墳丘自体の最大長は267m(前方後円墳内で全国第12位)とこちらも規模の大きい陵墓です。

 

御祭神の陵墓巡りの最後に伺った折にはすでに夕暮れ時になっておりましたが、その中に静かに佇む神功皇后陵には、先に伺った応神天皇陵・仲哀天皇陵とはまた違った神々しさを感じました。陵墓の大きさも歴代天皇の陵墓に引けを取らないものですが、仲哀天皇崩御の後、摂政として幼い皇太子時代の応神天皇を支え国を治められたという大きな御事跡を考えると、それも当然の事と思えます。

 

今回、こうして三柱の御祭神の陵墓を巡った訳ですが、こうして現代まで陵墓がしっかりと保存されている事自体が、歴代の天皇・皇后陛下や皇族方への国民の崇敬を現していると言えるのではないかと思います。(残念ながら仲哀天皇陵は、城として一時利用された跡があるようですが、陵墓自体の破壊は逃れてしっかりと保存されています)

陵墓に限らず、古くから我々のご先祖達が守り伝えてきた文化遺産や心構えをこれからも大事に残し伝えていきたいものです。

折しも、応神天皇陵・仲哀天皇陵を含む古市古墳群と仁徳天応陵を含む百舌鳥(もず)古墳群とを合わせて世界遺産に登録しようという活動が始まっているそうです。期待して吉報を待ちましょう。

2017年02月24日

松帆神社ブログ第9回・菊一文字と沖田総司

松帆神社の宝刀となっている太刀・菊一文字は、今でこそファイナルファンタジーを始めとした数々のゲームや新選組が関わる小説・果てはラノベに至るまで、様々な所で取り上げられ、それ程刀剣に詳しくない人でも目耳にする事がある存在になっているようですが、戦前までは刀剣に本当に詳しい愛好家の間でなら話が通じるような知る人ぞ知る存在であったようです。

その菊一文字が一般の人にも知られるようになったきっかけ、更には 新選組一番隊 隊長 沖田総司の刀としての知名度を得るようになった契機は、昭和の大作家と言える 司馬遼太郎氏の小説「新選組血風録」(1962年5~12月 小説中央公論掲載)・「燃えよ剣」(1962年11月~週刊文春掲載)であったようです。

 


特に短編集の体裁を取る「新選組血風録」の最後を飾る話として、沖田総司を主人公とした「菊一文字」という短編が描かれており、そのストーリーが「沖田総司の刀=菊一文字」というイメージを一般読者に強烈に残したようなのです。

短編「菊一文字」は、沖田が懇意にしている刀剣商が、偶然京都のさる神社から発見された菊一文字を入手し、大名からの高額での買取の要望を蹴ってまで、日頃からその腕と人柄に惚れ込んでいる沖田に貸し与えるのだが、その菊一文字を巡ってひと騒動起きて…という話です。その話中で労咳で自分の先は長くないと悟った沖田が、鎌倉初期から何百年も生き長らえた菊一文字を大事に愛おしむ場面があり、若くして亡くなった沖田の悲劇性とも合わさって非常に多くの人の心に残ったのでしょう。

土方歳三を主人公に描く「燃えよ剣」の中でも、特別に沖田の最期を描く章があり、千駄ヶ谷の植木屋に隠れ療養していた沖田が京都の頃から所持していた菊一文字を肌身離さず持っていたという記述が出てきます。(沖田総司好きな方の間では有名な「庭の黒猫を斬れなくなった」という話もここで出てきます)

勿論、新選組に関する研究が進んだ現在では、江戸末期では既に菊一文字の真作は入手困難であり、入手できたとしても大大名に限られるような貴重なものである為、新選組隊士の沖田が持っていた可能性はゼロに等しい、ましてや人斬りが日常の一番隊隊長が実際に使う筈もない、従って「沖田総司の刀=菊一文字」は完全なフィクションである…というのが定説になっているようです。(沖田の刀としては、加州清光等の比較的時代の新しいものを使っていたと言われています)

こうした詳しい方のご意見をWeb上で数多く拝見していると、「沖田総司の刀=菊一文字」は司馬遼太郎氏の創作ではなく、司馬氏が新選組を題材に作品を書くにあたって参考とした子母澤寛氏の伝記・小説「新選組始末記」(1928年刊行)に「沖田の刀は菊一文字細身のつくり」とあり、それを参考にしたのだ…とされています。

そこで、「新選組始末記」とそれに続いて刊行された「新選組遺聞」(1929年刊行)を読んでみたのですが…どこにも菊一文字の話は出てこないのです。う~ん、どういう事か??それでは司馬遼太郎氏は何を参考にしたのでしょうか?

 

「沖田の刀が菊一文字というのは創作」説を確認すべく、その他の新選組関連の著作を図書館で調べまわったところ、結喜しはや氏著の「新選組一番隊・沖田総司」(2004年・新人物往来社)という本の中に興味ある記述が見つかりました。

 

その記述とは以下の通り。「…というので、総司の佩刀(はいとう)が古刀『菊一文字』というのは、現在では物語のなかのこととして、広く知られていることである。が、その物語の誕生したのには、沖田家ご子孫より『総司の刀は菊一文字で、その後神社に奉納された』とのお話を直接聞かれた故・森満喜子氏が、同じく故人となってしまわれたが、司馬遼太郎氏に伝えられて、たとえ古刀であるから事実でなくとも小説のうえでは、と総司の佩刀としてお願いされたというものである。」

森満喜子氏(1924~2000年)は九州・大牟田在住の沖田総司研究家・作家として有名な方で、その著作は見事に沖田総司関連ばかりという方です。結喜氏は生前の森氏とも交流があったそうですので、上記の内容は事実として認定して問題ないのではと思われます。

じゃあやっぱり「沖田総司の刀=菊一文字」はフィクションなのね…という結論になりそうですが、私個人としては別の見方もあるのではないかと思います。

仮に、「総司の刀は菊一文字」と沖田家で言い伝えられていたのだとしたら、沖田総司が最期の療養生活中、死の間際まで身近に置いていた刀は「菊一文字と名の付く刀」だった可能性が高い筈なのです。何故なら、沖田家の子孫が 脚色の為に名のある刀を沖田総司が持っていた事にしようと考えたとしても、他に名のある刀はゴマンとある訳です。どうして、菊一文字の名前が出てくるのでしょう?通常であれば、尊敬すべき祖先(or 叔父 or 大叔父)について、言い聞かされた話を、刀の知識もないのに脚色したりしないでそのまま伝えようとする筈です。

そう考えると、沖田総司は死の間際まで「この菊一文字は大事なものなんだ」と周囲の人に言いつつ傍に置いていた様子が目に浮かびます。仮にその場合、沖田の手元にあった菊一文字が真作であったかと問われると、そうではないかも知れません。

新選組に詳しい方は既にご存知の通り、新選組局長 近藤勇の刀と言えば「虎徹」、鬼の副長 土方の刀は「和泉守兼定」…となっており、それに異論を挟む方はないと思いますが、土方の方はともかくとして、近藤勇の「虎徹」は偽作であったというのが定説となっています。(勿論、いやいや真作だったという説もあるようですが)

ただ、近藤勇の場合、偽作の虎徹を本物と信じて実際にそれを使って実戦で活躍した為、偽作うんぬんは問題にされなくなっている…という背景があるように思いますが、ともかく、名のある刀でも偽作であれば新選組隊士でも入手の可能性はあったという事です。真作の菊一文字を沖田が手にするのは難しいとしても、「これは掘り出し物の菊一文字ですよ」という形で偽作の菊一文字を手に入れ、大切にしていたという可能性ならあるのではないでしょうか?そう考えると、まさに司馬遼太郎氏の「菊一文字」の短編のシーンが目に浮かんで来るようです。

ですから、「沖田総司の刀は?」という問いに対してはこのような回答が正しいと思うのです。「沖田総司が主に使った刀は加州清光、沖田総司が愛した刀は菊一文字」。皆さんはいかが思われますか?

沖田総司の死後 神社に奉納された…と沖田家に言い伝えられている刀が見つかれば、謎は全て解明されるのでしょうが…。しかし、逆に全て分かってしまうのも色々と空想を楽しむ余地がなくなって興ざめかも知れません。結局は、皆それぞれの沖田総司像を持ち、その中で彼に相応しい刀は何かを考えるのが正解のような気がします。

2017年03月14日

松帆神社ブログ第10回・松帆神社を建てたお殿様の秘密

松帆神社を建てたお殿様・正井将監

松帆神社の創建は、御由緒のページにも記載のある通り応永6年(1399年)と記録が残っています。元々は東浦一帯でも一番北部にあたる楠本村の山中に、楠木正成公の家来 吉川弥六達が、正成公が日々尊信されていた八幡大神の神璽(文殊)を御神体とした祠を建て、その御神徳が評判となり現在の場所に奉遷された…との経緯が伝承されていますが、それに深く関わり当時の浦村(現在の淡路市浦)・来馬村(現在の淡路市久留麻・仮屋)を中心とした東浦地域一帯の氏神とする事を主導したのが、当時の領主・正井将監(まさいしょうげん)です。

※(注):正井将監には「向井将監(むかいしょうげん)」という別名もあるようですが、江戸幕府の船奉行として有名な向井将監とは全く関係がないようです。

正井将監の居城は、現在の神戸淡路鳴門自動車道の東浦IC付近にあったそうで、現在も「城の土居」「向井殿」と呼ばれる遺構が残っています。いずれも、まだ本格的な山城が築かれる前のもので、脇を流れる浦川と周囲を巡らした濠に囲まれた小高い丘の上に居館があったようです。

◆「城の土居」 ※現在の淡路市浦 小田(こだ)・奥地区にあります

 

「向井殿」 ※「城の土居」のすぐ東側・向かいにあり、正井将監が住んだ、もしくは一族が住んだとも言われ、詳細は不明です

 

東浦一帯にこれだけの居城を持ち勢力を誇った正井将監ですが、現存している資料では正確に何時ごろからこれだけの領地を治めたのか分かっていません。ただ、室町幕府の治世の下、南朝方の象徴でもある楠木正成ゆかりの神社を創建するとは、何とも思い切った行動ではないでしょうか?しかも、当時の淡路島(淡路国)は、室町幕府の管領(かんれい:足利将軍家を補佐する最高の役職)であると同時に四国全体と淡路国を領地として治めた重要人物・細川頼之(よりゆき)の支配下にあったのですから…。

正井将監の秘密

実は、正井将監の末裔・正井家に伝わる文書に、にわかには信じ難いような正井将監の出自が語られているのです。その中で、正井将監は元の名を「菊池能平(よしひら)」と言い、南北朝時代の南朝の武将として湊川の戦いにも参戦し、その後領地のある九州の肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を中心に九州南朝軍として戦った武将「菊池武重(たけしげ)」の孫であると書かれているそうです。

菊池武重は、湊川の戦いでの楠木正成の戦死・その後の新田義貞軍の北陸への敗走という逆境下で後醍醐天皇と行動を共にし、一時足利尊氏に後醍醐天皇と共に捕らえられましたが、単身脱出し九州に戻りました。その過程で、武重の孫がいかにして淡路北部の領主になったのか…不明な事ばかりですが、そもそも足利幕府の世の中で南朝方と言ってよい領主が京都に近い淡路島にいた事が驚きです。

ただ、正井将監のこうした出自・背景を踏まえると、南朝方の英雄である楠木正成ゆかりの八幡神社創建に尽力したのは大変自然な事に思われます。実は、松帆神社は楠木正成公ゆかりの神社である…という神社に残る伝承の他に、胞洲誌という古文書には「応永6年時の城主向井(正井)将監、男山より勧請、面々氏神として崇め祀る」との記述もあるそうなのですが、これは恐らく室町幕府や細川家に向けた偽の報告がそのまま残ったものであると思われます。

また、調べていくと松帆神社が創建される応永6年(1399年)の頃までは、室町幕府は鎌倉幕府や徳川幕府とは比べ物にならない程、脆弱な体制であった事も分かってきました。最近、室町時代後期に発生した「応仁の乱」が話題になっていますが、室町時代の初期・いわゆる「南北朝時代」の室町幕府の内情も、応仁の乱当時に全く負けない位ダメダメなのです。その原因は、天皇が南北朝双方に立てられた事による権威の低下と、足利将軍家と有力武将による権力闘争です。

世に有名な「太平記」ではこうした部分にも言及があるのですが、一般に知られているのは湊川の戦いや楠木正成の長男・正行(まさつら:小楠公とも言われる)が討ち死にした四条畷(しじょうなわて)の戦いまでの辺りで、残りはほとんど誰も知らないのではないでしょうか?以下に南北朝時代の動乱の概略を記しますが、これだけでも当時の混乱ぶりが想像できます。

 

<南北朝時代の主な戦い・動乱>

<延元元年(1336年)>

湊川の戦いの後、後醍醐天皇は京都に入った足利尊氏に一旦降伏するが、吉野に逃れ南朝を開く

<正平3年(1348年)>

四条畷の戦いで、楠木正行(小楠公)はじめ南朝の主要な武将が戦死

<観応2年(1351年)>

観応の擾乱(じょうらん):室町幕府の政治面のトップを担っていた尊氏の弟・直義(ただよし)と軍事面トップの足利家執事・高師直(こうのもろなお)が対立、師直が軍事クーデターで尊氏の屋敷に逃げ込んだ直義を包囲、争乱を納めるべく直義は出家。これを見て尊氏の子ながら直義の養子となっていた・直冬(ただふゆ)が九州で南朝方と結んで勢力を拡大、直義も京都を脱出して還俗し南朝に寝返る。足利尊氏、二代将軍義詮、高一族を中心とした幕府軍は直義の元に集まった南朝軍に敗北し、和議の条件として高師直を始めとした高一族を罷免。高一族は京都に護送途中に惨殺される。

その後、直義の報復と勢力拡大を恐れた尊氏は、直義の後ろ盾となっていた南朝を懐柔し直義追討の綸旨(りんじ)を得るべく南朝に降伏し、一時的に北朝の天皇が廃された。直義は鎌倉に逃れたが降伏、間もなく病死。(毒殺の疑いあり)

一方で増長した南朝軍は京都に侵攻し、北朝の光厳上皇や皇太子、三種の神器を当時の南朝の本拠・賀名生(あのう)に拉致してしまうが、室町幕府軍に駆逐され南朝軍は賀名生に撤退。一時的な南北朝統一は破談となり、幕府側は再び北朝の天皇として後光厳天皇を三種の神器なしで擁立。

<文和4年(1355年)>

直義死去後、九州から落ちのび石見に勢力を持っていた足利直冬と南朝方が手を組み京都を奪還するが、幕府軍に攻め返され敗走。

<康安元年(1361年)>

2代将軍義詮の執事・細川清氏が義詮との対立を経て反乱、南朝方に寝返る。南朝方の主力 楠木正儀(まさのり・正成の三男)や清氏の従弟で当時の淡路国守護であった細川氏春と共に京都に侵攻するが、幕府軍の反撃により逃亡先の讃岐で従弟の細川頼之に攻められ戦死。細川氏春は降伏した為、罪を許され淡路国守護に復帰。

<康暦元年(1379年)>

3代将軍義満の後見人であり、将軍就任後は将軍を補佐する管領に就任した細川頼之に反抗する勢力がクーデターを起こし、義満の花の御所を包囲して頼之の罷免を要求、認めさせた。頼之は出家し、本拠地の四国に戻った。

<康応元年(1389年)>

美濃・伊勢国の守護大名である土岐康行の反乱が鎮圧される。

<明徳2年(1391年)>

摂津・但馬・山城国の守護大名である山名氏清らの反乱が鎮圧される。

<明徳3年(1392年)>

南朝方の武将・楠木正勝(正儀の子)が幕府軍の追討を受け敗走、戦力のなくなった南朝方は三種の神器を返還する事に合意。56年ぶりに南北朝の分裂状態が解消された。

 

以上ですが、どうでしょうか?これだけ幕府が揺らぐような事態が連続していると、淡路の片隅に南朝方の領主がいても年貢さえきっちり納めているのであれば、不問に付されても不思議はありません。しかも、淡路国守護の南朝方への寝返りもあって、淡路島は一時ではあるものの南朝の勢力圏に入っているのですから尚更です。

領主 正井将監の退場

ただ、3代将軍義満の代になり、徐々に室町幕府の統制も強まり、四国全体と淡路国を統括する細川家の管理も厳しさを増したようでもあるのです。正井家文書には、明徳元年(1390年)に細川頼之の下知(命令)に従わなかった正井将監が処罰を受けそうになったが、足利尊氏の三十三回忌の特赦として許された…との記述があり、統制強化を裏付けています。

1399年の松帆神社創建以降に 正井将監は領主としての任を解かれ、その後は浦村より更に山側に入った白山村の庄屋に任命され、代々庄屋の家系として白山地区に根を張ることになるのです。

こうして見てきたように、正井将監が東浦の地に権勢を誇ったのは限られた期間ではあったようですが、松帆神社以外の神社創建にも尽力したとの伝承が残っており、その影響力は大きなものであったようです。

また、正井将監は松帆神社や他の神社創建にあたって、その場所決めや配置に非常にこだわったのではないか…と思われる状況証拠が多数残っているのですが、こちらについてはまた別の機会に…。

【参考文献】「東浦町史」(東浦町史編集委員会著)

2017年05月19日

松帆神社ブログ第11回・第18回ござがえ祭りの夜店ダイジェスト

去る8月6日(日)に開催されました、第18回ござがえ祭りの夜店の様子を写真中心にダイジェストでレポートいたします。

当日は、迷走の末本州に向けて進んでいた台風5号の影響が心配されましたが、夕方の段階ではまだ九州付近にあって、無事晴天の元祭りは開催されました。

例年通り、多数の夜店に出店いただき賑わう境内。神社の拝殿前の提灯や川柳灯篭も夏祭り気分を盛り上げます。

 

こちらも恒例の奉納ステージ、トップバッターは「森ンズ」さん。

 

続いて、昨年初登場で大好評を博した、ジャグリングの日本&全米チャンピオン「ジャグラーここあ」さんの圧巻のパフォーマンス!何気なくやっているように見えますが、足でバランスを取りながらの炎のジャグリング…さすがです。

 

ここあさんは、仲間2人を加えた「ジャグラーここあ&ブラザーズ」として、日が暮れてから2ステージ目も登場いただきました。迫力のファイヤーパフォーマンスに皆も釘付けでした。

 

今回は、淡路市観光応援隊を結成いただいている、吉本興業の「モンスーン」「かりんとう」のお二組にも登場いただき、祭りを盛り上げていただきました。

 

淡路市の門市長にご挨拶いただいた後は、淡路市が本拠地の女子プロ野球兵庫ディオーネさんのPRタイム!挨拶の後は、みんなで兵庫ディオーネの応援歌「フルスイング」を歌いながら勝利のダンス!!ディオーネの選手と一緒に練習した保育所のちびっ子達だけでなく、門市長もちゃんと踊ってます。(笑)

 

奉納ステージのトリは、ござがえ祭りの夜店のレギュラーメンバーでもある「懐めろパラダイス」さん。祭りを最後まで盛り上げていただきました。

 

本年もこのように、盛況のうちに祭りを終える事ができましたのも、地域の皆様・関係者各位のご尽力のお蔭と大変感謝しております。本当にありがとうございました。来年も趣向を凝らして、東浦の子供たちの夏の思い出作りと地域の活性化に取り組んで参ります!

2017年08月16日

松帆神社ブログ第12回・平成29年度 松帆神社例大祭ダイジェスト

去る10月1日(日)に、好天のもと松帆神社 例大祭(秋祭り)が斎行されました。例年にも増して多数の方に祭りへのご協賛をいただき、誠にありがとうございました。また、今年は谷・中ノ丁・戎ノ丁の3町内会から布団太鼓(淡路のだんじり)を、仮屋保育所からはこども太鼓を出していただき、いつにも増して賑やかな祭りとなりましたが、事故なく無事に祭りを終える事ができ、関係者の皆様には心より御礼申し上げます。ここでは、祭りの様子をダイジェストでご報告いたします。

<菊一文字一般公開>

例大祭の神事に先立って、10時からはこちらも恒例の 神社の宝物・重要美術品の名刀菊一文字の一般公開を行いました。年1回、この例大祭の日にだけ一般公開するという事もあり、大勢の方がいらっしゃいました。今年はツイッターでも告知をさせていただいた効果もあって、島外からも多数の方が菊一文字を一目見ようとお越しいただきました。本当にありがとうございました。来年の例大祭でも皆様に菊一文字をお目にかけられるよう、精一杯手入れを行って参ります。

 

<こども太鼓宮入り>

例大祭の本殿での神事終了後、13時からは祭りの華・太鼓の宮入りとなります。まず最初は、仮屋保育所の年長の皆さんのこども太鼓宮入りです。父兄のサポートを受けながらですが、「チョーサジャ!」の掛け声も立派に太鼓の練りを行い、練りの後のたいこ唄奉納も上手に歌い上げ拍手喝采でした。

 

<布団太鼓宮入り>

今年の布団太鼓は、前述のとおり中ノ丁・戎ノ丁・谷の3町内会から出していただき、それぞれ勇壮に練り込みを行っていただきました。一連の宮入りの練りの様子をスタートからご紹介します。

宮入りの開始前は、ご覧のように各町内から運んできた太鼓を神社駐車場に安置してお昼休み。3台揃うと壮観ですね。(左が戎ノ丁・真ん中が中ノ丁・右が谷)

 

保育所の宮入りが終わると、さぁ大人の力の見せ所。太鼓は一旦鳥居まで向かい、その後宮入りの為 本殿前の広場に向かいます。神社の山門を注意深くくぐったら、さぁ練りも本番!「チョーサジャ!」の掛け声が一層高く響きます。

※「チョーサジャ」は近畿・瀬戸内を中心に用いられる、だんじりをかつぐ際の掛け声。「チョーサ」は布団太鼓やだんじりを指す古語・俗語なのだそうです。

 

練り込みが最高潮に達すると、「サッセー!サッセー!チョーサ!」の掛け声ともに、太鼓衆が力を振り絞って布団太鼓を頭上に差し上げます。太鼓をかつぐだけで体力を大きく消耗する訳ですがから、この「差し上げ」は何回もできない大技です。

※「サッセー」という掛け声は「差し上げろ」の略のようです。「太鼓(チョーサ)を差し上げろ(サッセー)」という事ですね。

 

練りも終わりに近付くと、屈強な太鼓衆にも疲れの色が…。本殿前の階段下まで到着したら練りは終了し、太鼓衆が唄を奉納します。

 

いかがでしたでしょうか?これ以外にも、地域の皆さんが楽しみにしている餅撒きや、神輿渡御など、今回はご紹介できない例大祭の行事が多数ございました。来年2018年(平成30年)の例大祭は、10月7日(日)斎行となります。また大勢の方にお越しいただければ幸いです。

2017年10月04日

松帆神社ブログ第13回・家紋から読み解く「松帆神社の菊一文字の元の所有者とは?」

先だっての平成29年10月1日(日)の例大祭において、年1回の一般公開を行った松帆神社の名刀「菊一文字」ですが、外気に触れ傷みだすのを少しでも避けるべく、10時~16時の一般公開の時間が終了すると神職が急いでマスク・手袋をして片付け、手入れの後 白鞘(しろさや:刀剣の保管用の鞘)に納めます。同時に展示していた柄(つか)、鍔(つば)、鞘(さや)の拵(こしらえ)一式も、同時に片付けて専用の袋に納めます。

(参考)<太刀の拵の部位名称> ~出典:「重要文化財27・工芸品Ⅳ」(毎日新聞社刊)~

 

従来は急ぐあまりにじっくりと拵の細部を眺める機会がありませんでしたが、今年はたまたま袋に納める前に柄の先端の「柄頭(つかがしら)」と手元の「縁金物」の部分に彫り込まれている2種類の家紋を撮影する事ができました。

※柄頭は「頭」、縁金物は「縁」と呼ぶ場合もあります(特に、太刀より短い室町時代以降の刀剣「打刀(うちがたな)」において)

<松帆神社の菊一文字の柄頭>

 

<菊一文字の縁金物>

 

宮司によると、松帆神社の菊一文字の柄は大変傷みが激しく、柄に巻かれていた黒鮫皮だけでなく柄の握りの部分の木材もボロボロになっていた為、1999年(平成11年)の松帆神社600年大祭に合わせて、専門家に修復をお願いしたそうです。

それもある意味当然で、松帆神社の菊一文字の拵全体が約500~680年前のものだからです。

※「日本刀重要美術品全集 第4巻」においては「室町時代末~安土桃山時代のもの」とされていますが、600年大祭の際の修復でお世話になった専門家の方は「南北朝期のものではないか」との見立てだったそうです。刀身は鎌倉時代前半作の為、約800年前のものです。

※黒鮫皮:刀剣の柄の部分に滑り止め兼装飾用として用いられる東シナ海等に生息するツカエイ等の皮を、黒漆を塗って補強したもの

※金銅:銅の下地に鍍金(ときん:金メッキ)を施したもの

 

600年大祭での柄修復の際にも、柄頭だけはあえて修復せずオリジナルの状態のまま残したそうですが、金銅(こんどう)作りの跡が残る柄頭とそれに合わせた意匠の縁金物には、ご覧のように「十六弁の菊紋」と「桐紋」(中輪に五三の桐)が彫り込まれています。

上の写真では家紋部分が薄れて見にくいですが、下のように画像で見ると皆さん「あ、見た事あるある」と思われるのではないでしょうか?

<十六菊紋>

<中輪に五三の桐紋>

刀剣の拵に入れられた家紋の意味とは?

ご紹介した松帆神社の菊一文字の柄頭・縁金物のように、刀剣の拵の各部分には家紋が彫り込まれたり、描かれている事がよくあります。いくつか事例をご覧いただきましょう。

<金梨子地糸巻太刀(きんなしじいとまきたち)の柄まわり> ~出典:「図説 日本刀大全」(学研パブリッシング刊)~

上の太刀は、庄内藩藩祖の酒井忠次が、天正10年(1582年)武田勝頼討伐の軍功により織田信長より拝領したもので、元の所有者である織田信長が室町幕府第15代将軍・足利義昭から拝領した「五三の桐紋」が各所に散りばめられています。

<井伊直弼使用の打刀の柄まわり> ~出典:「図説 日本刀大全」~

この打刀は、江戸幕府末期の大老で彦根藩主・井伊直弼のもので、井伊家の家紋である「彦根橘紋」があしらわれています。

<彦根橘紋>

以上の例でご覧いただいたように、刀剣の拵に入れられた家紋は所有者を表すものとなっています。という事で、松帆神社の菊一文字の柄頭・縁金物に彫り込まれた「十六弁の菊紋」「五三の桐紋」は本来の所有者の家紋であると考えるのが自然でしょう。

菊紋とは?

日本で家紋の元になる文様を付け始めたのは11世紀後半の平安時代中頃からと言われています。最初は、公家が自分の輿車(よしゃ)を区別し装飾したり、衣服の文様に用いたりといった用途から発展したそうです。その中で、公家は自分の子孫にも特定の文様を伝えるようになり、家紋が成立していったと言われています。家紋は衣服や調度品、屋敷の瓦等にも用いられ、武士もそれにならって自家の家紋を定めるようになっていきました。

そうして成立した数ある家紋の中でも、最も特別で高貴な家紋が菊紋です。何故なら、菊紋は皇室の家紋であり、日本国を象徴する紋ともなっているからです。海外旅行された事がある方はご存知ですよね?

 

菊という植物そのものは、古代から中国においては神仙の霊草とみなされて、延命長寿の薬としても使われていました。

日本でも遣唐使がこの文化を持ち帰った奈良時代末期以降、整然と並んだ多数の花弁から連想して「繁栄の象徴」「気品ある花」として菊を鑑賞するようになり、平安時代末期には公家の間で菊の文様が衣服等に盛んに使われるようになりました。この頃は、まだ菊紋は皇室専用ではなかったのです。

これが変わったのが、菊一文字の成り立ちにも深く関わっておられる後鳥羽上皇の時代からです。後鳥羽上皇は特に菊花を好まれ、十六弁の菊紋を御服や輿車だけでなく、自ら鍛えられた刀剣(菊一文字もその中の一つ)や懐紙にまで付けられたそうで、それを見た臣下達が次第に菊紋の使用を控えたため、結果的に菊紋が天皇家専用の家紋となっていったのです。

その後、南北朝時代以降は功績のあった公家や武家に恩賞として天皇家より菊紋が下賜されるようになり、次第に用いる者が増加していきました。室町時代後半以降は足利将軍家から功績のあった武将に下賜されるケースもありました。

江戸時代に至っては天皇家の権威低下を狙った徳川幕府の方針で、一般庶民までもが菊紋を使用するようになりましたが、明治維新以降に再び皇室専用の紋と規定され使用が制限されました。昭和22年には菊紋使用制限の法令が失効した為、現在は菊紋の使用制限はありませんが、過去の経緯も踏まえ「菊紋、特に十六弁の菊紋は天皇家の家紋」というのが、家紋にある程度詳しい方の共通認識でしょう。

桐紋とは?

桐は古代中国において吉兆の象徴である伝説の鳥・鳳凰(ほうおう)が宿る木とされ、鳳凰の食べる実をつけるとされた竹と合わせて「桐竹鳳凰」の3点セットで文様化されて9世紀初めの嵯峨天皇の頃には天皇の御袍(正式な衣服)にも使用されていたようです。

そこから転じて、後鳥羽上皇の時代までには菊紋より先に、桐紋が皇室の紋となっていたと見られます。皇室の桐紋とされたのは、三つある茎に描かれた花の数で区別された「五三の桐紋」「五七の桐紋」の二つです。

<五三の桐紋>

<五七の桐紋>

当初は五三の桐紋のみであったようですが、後に五七の桐紋が追加され最終的には五七の桐紋の方がより上位とされたようです。

また、桐紋は後醍醐天皇の頃(南北朝時代)までは菊紋と共に皇室専用の紋として位置付けられていたようですが、その後武家や公家に恩賞として下賜される事が続きました。戦国時代以降は、下賜された武将が更に家来に褒美として与えるに至って、ごく一般的な家紋になっていったようです。江戸時代には庶民にまで使用が拡がり、現在では貸衣装に付いている家紋の大半は桐紋とそのバリエーションだそうです。また、五七の桐紋は日本政府の紋章としても使われており、ご覧になった方も多いかも知れません。

<日本政府の紋章(五七の桐紋)>

 

南北朝時代~安土桃山時代までに「菊紋」「桐紋」両方を使えた人物は?

ここまでは菊紋と桐紋の歴史を簡単にご紹介してきましたが、内容を総括すると、松帆神社の菊一文字の拵が作られたと思われる南北朝時代(1336年~)から安土桃山時代(~1615年頃まで)までの間に、「十六弁の菊紋」「五三の桐紋」を共に使う事ができたのは、まずは歴代の天皇に他ならない事にお気付きいただけたかと思います。

但し、この約280年間の間に、例外的に2人の人物だけが「菊紋」「五三の桐紋」の両方を拝領し、自由に使う事ができたのです。

 

【候補者その①】足利尊氏(及びその直系子孫である足利将軍家)

<足利尊氏図(集古十種所蔵)>

松帆神社と縁の深い楠木正成公とは宿敵的な位置付けにある足利尊氏ですが、鎌倉幕府を倒し建武の新政を打ち立てるにあたっての功労者として後醍醐天皇より最も手厚く処遇されたのは尊氏でした。尊氏は数々の所領を与えられたり、後醍醐天皇のお名前の「尊治(たかはる)」の一字を与えられて「高氏」から「尊氏」に改名しただけでなく、恩賞の一つとして「菊紋」「桐紋」を与えられたと伝わっています。

従って、同じく拝領したり独自に入手したものであろう菊一文字の刀身に合わせて菊紋・桐紋入りの拵を自ら作った…と考える事もできるのですが、様々な理由から足利尊氏が所有者であった可能性は極めて低いと思われます。

【理由①】

足利尊氏やその子孫の歴代足利将軍家が、都から遠く離れた淡路島にある、南朝軍の象徴的存在である楠木正成ゆかりの神社にわざわざこれだけの宝刀を寄進するとは考えにくい。

【理由②】

松帆神社側にも、室町時代中頃からは神社の設備更新等のトピックが記録として残されているが、もし時の権力者である足利将軍家から宝刀を寄進されたら間違いなく記録が残る筈。

 

視点を変えて考えると、元は後醍醐天皇のもので、褒美として菊一文字を拝領した尊氏が更にそれを楠木正成に贈った…という可能性もなくはありません。最終的には敵味方となりますが、足利尊氏が南朝方の武将の中でも楠木正成だけは例外的に高く評価していた事が、足利将軍家の視点で描かれた軍記物語「梅松論」からも伺えます。

ただ、後醍醐天皇の部下として尊氏と正成が共に建武の新政を支えたのは実質1年程度で、それ以降は敵対関係になっていきます。また、源氏の頭領としての尊氏と元は河内の土豪であった正成の間には大きな身分差がありました。正成がいかに鎌倉幕府打倒の真の功労者とは言え、尊氏 ⇒ 正成の刀のやり取りがあったと考えるのは少々無理があるかも知れません。実際にそういうやり取りがあったという古文書でも出てきたら本当に凄い事ですが…。

 

【候補者その②】豊臣秀吉

<豊臣秀吉図(集古十種所蔵)>

次に、菊紋と桐紋を自由に使える事ができる人物として挙げられるのが、かの豊臣秀吉です。秀吉は羽柴秀吉時代に、織田信長から「五三の桐紋」を褒美として与えられています。(前述の通り、織田信長は足利義昭から拝領)

後に秀吉が近畿・四国を平定し関白の地位についた後、1586年に豊臣朝臣の姓を後陽成天皇から下賜されますが、合わせて「菊紋」「五七の桐紋」を拝領しました。秀吉はそれまで沢潟(おもだか)紋を使用していたそうですが、以降 菊紋や桐紋を自らの衣服や所有物、建物や城の外装にまでどんどん使用していったそうです。

<沢潟(おもだか)紋>

また、秀吉は部下や戦功のあった武将に桐紋をどんどん褒美として与えましたが、結果として桐紋がありふれたものになってしまった為に、自分用のオリジナルデザインの桐紋「太閤桐」を新たに作った程でした。

<太閤桐>

また、松帆神社の菊一文字の拵の本来の姿も、秀吉所有者説を想起させるようなものであったのです。現在の菊一文字の拵は一見したところ黒一色ですが、「日本刀重要美術品全集 第4巻」においては「拵は鞘(さや)を金銅板金で包んで云々~」と書かれており、鞘の部分が鍍金による金塗りであった事が伺えます。

こちらが、現在の菊一文字の拵。

 

仮に鞘と柄頭が金銅作りの金塗りだったとすると、こうなります。(色塗りが拙いのはご容赦を…)

 

いかにも派手好き、キンキラキン大好きで知られた秀吉っぽい見映えです。ですが、やはり秀吉が所有者であった可能性も低いと言わざるを得ないと思われます。

【理由①】

(足利尊氏説と同じく)時の最高権力者 秀吉が淡路島にある小さな神社にこれだけの刀を寄進する理由がない。

※秀吉は京都の愛宕神社に重要文化財にもなっている名刀「二つ銘則宗」を寄進する等、有力神社に対しては刀剣を寄進した記録が残っています。

【理由②】

(足利尊氏説と同じく)神社側の記録に一切残っていない。秀吉からの寄進といった大ごとであれば記録に残らない筈がない。

 

残る可能性としては、秀吉が所有していた菊一文字を部下に褒美として与え、その部下がそれを松帆神社の前身の八幡宮に寄進した…というケースですが、秀吉が関白になって以降、淡路島の支配を任されていたのは賤ケ岳七本槍の一人 脇坂安治、姫路城築城で有名な池田輝政の三男 忠雄などですが、いずれも松帆神社との関係は歴史上伺えません。

唯一、松帆神社の記録上に接点が残っているのが、大坂夏の陣の功績で淡路島全体を領地として加増された阿波徳島藩の蜂須賀家です。秀吉の家来の一人として名高い蜂須賀小六(正勝)が元になっている阿波の蜂須賀家ですが、小六の祖先は楠木氏出身とも南朝方の武将であるとも言われており、楠木正成との関係を伺わせる一族なのです。

更には、正保元年(1645年)の拝殿再興の記録には「阿波の太守様より料材(建設用の材木)の寄進を受けた」という内容が残っています。これは、ちょうど小六のひ孫にあたる、蜂須賀忠英が当主であった時の事と思われます。

料材と共に、蜂須賀家の祖先とゆかりの深い楠木正成に関係する神社に秀吉から拝領した宝刀を寄進した…というのはストーリー的には有り得るのかも知れませんが、これも記録に残っていない以上 仮説でしかありません。

 

今回の結論とまだ見ぬ真実

ここまでの話をまとめると、結局 帆神社の菊一文字の元の所有者は後醍醐天皇である、と考えるのが一番自然かと思われます。(それ以降の南朝方の天皇なども可能性があるのでしょうが、淡路島まで運ばれる理由・ルートがなかなか想像もつきません)

ただ、この結論さえも裏付けとなる古文書等がある訳ではなく、諸条件を整理した上での消去法に過ぎません。どこかに真実につながる文書や情報が眠っているのかも…。それが松帆神社から見つかるのか、どこか他の場所で見つかるのかは分かりませんが、まだ見ぬ真実が明らかになる日が来るのが楽しみです。

<今回の参考文献>

「菊と桐・高貴なる紋章の世界」 額田巖著 (東京美術刊)

「図像化された日本文化の粋・家紋の文化史」 大枝史郎著 (株式会社講談社刊)

「日本の紋章」 (ピエ・ブックス刊)

2017年11月18日

松帆神社ブログ第14回・~太陽の道~ 北緯34度32分の謎と松帆神社① 「太陽の道」とは何か?

皆様は「太陽の道」という言葉をご存知でしょうか?

これは、奈良在住の写真家で歴史研究家の小川光三氏が1973年に著書「大和の原像」(大和書房)にて提唱し始めた説で、その説を元に、NHKの歴史番組のディレクター・水谷慶一氏が制作したNHKスペシャル「謎の北緯34度32分をゆく」(1980年2月11日建国記念日の夜放送)で取り上げられ、一躍有名になったものです。

 

 

このTV番組の中で「太陽の道」の終着点として松帆神社の近隣の神社も取り上げられ、観光客がどっと押し寄せる事態になったそうです。

38年経った現在では、その番組の内容を覚えておられる方は少なくとも50代以上という事で、一般的には忘れ去られたと言ってよい状況です。また、民間の研究者の個人的見解という扱いで考古学会からは黙殺されており、現在「太陽の道」を研究しておられる方も私の調べる限り見当たりません。

 

こうした不遇の道をたどっている「太陽の道」の説ですが、件のNHKスペシャルの影響は大きく、未だに「太陽の道に関係するお宮へお参りに来ました」という方が松帆神社へも年に10名程度はお立ち寄りになる程です。

だからと言って、直接関係ない松帆神社のブログでどうして取り上げるの…?というご指摘がありそうですが、こちらの写真をご覧下さい。

 

これは、松帆神社の拝殿の前で緯度を計測した際の画像ですが、ご覧いただくように松帆神社は「北緯34度32分」の線上にほぼ位置しているのです。しかも淡路北部・東浦の海岸線全体が北北東方向に傾くような地形となっている中で、松帆神社は真東に向くように建てられています。

 

もしかして、太陽の道に何らかの関わりがあるのか…、それともそれ以外の意図があるのか…、と疑問に思い個人的に小川光三氏の「大和の原像」と、水谷慶一氏がNHKスペシャル制作と同時進行で執筆された「知られざる古代 ~謎の北緯34度32分をゆく~」(NHK出版協会)を読み込み、関連する遺跡や社寺を実際に訪れて今回のブログを書くに至った次第です。

 

今回のブログでは、「太陽の道」シリーズ1回目として、「太陽の道」の説をダイジェスト版で極力分かり易くご紹介したいと思います。

(とは言え、ダイジェストでも結構長いんです。できればお付き合い下さい。)

 

小川光三氏が提唱した「太陽の道」

小川光三氏は、奈良在住という利点を生かして仏像の写真や奈良盆地の風景写真などをメインに撮影されていたようですが、その風景撮影の中で日の出・日の入りの方角に留意しているうちに、奈良盆地南部の主要な神社や遺跡の位置関係に太陽の方角と絡めた一定の意図があるのではないかと気付き、「大和の原像」を書き上げられました。

その著作のメインとなっているのは、実は「太陽の道」ではありません。

奈良盆地の南・桜井市にある日本最古の神社の一つ 大神(おおみわ)神社の御神体とされる三輪山(みわやま)を核として、正三角形を描くように神社や天皇陵が配置されており、古代(古墳時代前期頃か)の太陽信仰と三輪山への信仰がこのような配置を生んだのではないか…とする説です。

 

大神神社は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を御祭神とし、大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)を併せ祀る大和国一宮・名神大社であります。伊勢の神宮が設けられるより前の古代においては、その位置付けの高さは一宮や名神大社という尺度では表しきれない程であったようです。

<大神神社拝殿>

<大神神社・二の鳥居>

<大神神社・大鳥居>

 

さて、実際に小川氏が提唱した説を分かり易く地図上に示すとどうなるのか、見ていただきましよう。

 

上記の図は「大和の原像」の中の地図ですが、三輪山山頂から真西にあって三輪山を遥拝する場所に 式内社・多(おお)神社が、三輪山から見て夏至の日の入りの方角(30度の角度で南西に向かう方角)には神武天皇陵が、冬至の日の入りの方角(30度の角度で北西に向かう方角)には鏡作神社群が存在するとされています。

<多神社 拝殿>

<多神社から臨む三輪山>

<神武天皇陵>

こうした太陽の日の出の位置は、春分/秋分、冬至、夏至という暦が把握できていれば比較的容易に調べることができますが、古代の技術でこれだけ正確に測位ができていたとすると驚くしかありません。

 

小川光三氏の「太陽の道」の説は、このメインテーマに付随するような形で7章あるうちの1章を割いて語られています。それを説明する模式図が文中にあるので見ていただきましょう。

 

まず「太陽の道」の起点となるのは三輪山の麓にある古墳時代の遺跡群・纏向(まきむく)遺跡の中でも主要な前方後円墳であり、卑弥呼の墓との説もある「箸墓(はしはか)古墳」(大市墓とも言う)です。

<箸墓古墳 遠景>

<箸墓古墳(大市墓)遥拝所>

<箸墓古墳・遥拝所の緯度>

そして、箸墓古墳のすぐ東側にあって、第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が宮中にお祀りしていた天照大御神をお遷しし初めて宮中以外にお祀りした倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)の地に創建され、「元伊勢」とも呼ばれる桧原(ひばら)神社がもう一つの起点となり、この2つの点を結ぶ線が「太陽の道」の始まりとなるのです。

<桧原神社(元伊勢)>

<桧原神社の緯度>

 

東西に延びる「太陽の道」

上の箸墓古墳の遥拝所と桧原神社の緯度をご覧いただくと、太陽の道は「北緯34度32分」ぴったりではなく、北緯34度32分18~20秒付近を中心とする太い帯状のラインになる事がお分かりいただけると思います。

小川氏の説は、この太陽の道が、伊勢の神宮(内宮)の斎主として天照大御神に仕えられた皇女「斎王(さいおう)」の住居施設「斎宮(さいくう)」跡の史跡を通るとし、太陽の神である天照大御神への信仰の元に太陽の道に沿って日の出の方向である真東へ、海に突き当たる地点まで約70km東に進んだ場所を斎宮としたのではないか…としています。

 

日本書紀においては、豊鍬入姫命に代わって倭姫命(やまとひめのみこと)が改めて天照大御神を奉斎すべく笠縫邑を出立し、奈良県の宇陀を通り近江を抜けて岐阜・美濃を回って最終的に伊勢に至ったとされている為、小川氏の説にはやや唐突感がありますが、伊勢の斎宮には内宮ができるまでの間 天照大御神をお祀りしたという話もあり、斎宮が様々な意味で重要な場所である事には間違いがありません。

斎宮跡は1970年頃から三重県明和町付近で発掘が進み、東西2km・南北0.7kmとかなり大規模なものであった事が分かってきています。建物についても100棟以上が建っていたと考えられており、往時の斎王の位置付けの高さが伺われます。

<斎宮復元施設・「さいくう平安の杜」>

<斎王の森(斎王の住居跡と伝わる)>

ちなみに、この斎王の森付近の緯度は「北緯34度32分25秒」。

緯度1秒が約30mとして、東に70km進んでもその南北方面への誤差は200m弱で済んでいる事になりますし、斎宮全体が南北に700mの幅がある事を考えると全くずれていないとの見方もできます。いずれにせよ、仮に何らかの方法で測位を行っていたとすると、古代の技術はかなりのものであった事になります。

 

さて小川氏は、太陽の道の東方向へのポイントを斎宮に置く一方で、西方向へ向かった場合のポイントを淡路島にある「伊勢の森」という山に設定しました。

「伊勢の森」とは、正確には常隆寺山という淡路市で2番目に高い山の山頂にあって、天照大御神をお祀りしているとされる祠のある一帯の事を指します。現在は木が繁って眺望が悪くなっていますが、古代においては淡路島北部の四方を見渡せる場所であったと思われます。

 

ここまでの話を総合して、小川氏が考えた「太陽の道」の姿を地図上に表すと以下のようになります。

 

但し、問題となるのは西の端のポイントとされる「伊勢の森」が太陽の道のラインからは大きく南に外れているという点です。

この地点の緯度は北緯34度30分31秒と、太陽の道のラインからおよそ3.4km程南に外れています。ここまで見てきたように古代の測位の精度がかなり高いのであれば、これは誤差とは言えないズレになります。

 

小川氏の「太陽の道」説の弱点

ここまで見たように、小川氏の説は着眼点としては興味深いものの、いくつかの弱点があったと言えます。

 

①「太陽の道」を構成するとされた神社・遺跡群の大半が小川氏が調べて回れる奈良周辺のものであり、ラインを構成するポイントとされた遠隔地の遺跡等については書物での調査がメインになっている事。(斎宮以外は詳細な現地調査ができてきない)

②「太陽の道」の西側のポイントとなるべき「伊勢の森」がラインから大きく外れており、太陽の道の存在を補強し切れていない事。

③どうやって「太陽の道」を形成する為の測位を行なったのか、有効な仮説を立てられなかった。

④なぜ古代において「太陽の道」を形成する必要があったのか、有効な仮説を立てられなかった。

 

こうした弱点や、自説をまとめた出版物を世に問うたものの奈良ローカルに留まって議論の拡がりがなかった事などもあって、「太陽の道」という説は7年間日の目を見ない事になったのだろうと推察されます。

この状況を変えたのが、番組制作に関係して小川氏と交流のあったNHK・水谷氏だったのです。

 

水谷氏・「太陽の道」説を大幅に補強する

水谷氏の直接的な功績は「太陽の道」という説を、1980年当時は今現在よりももっと強力なメディアであったTVで、しかも建国記念日のNHKスペシャルという注目度の高い番組で紹介し一気に日本全体にその説を行き渡らせたという点になりますが、そこに至るまでには小川氏の説を下敷きにしながら地道な取り組みで補強を行っていった事が「知られざる古代」の文中から伺う事ができます。

 

【水谷氏が行った「太陽の道」説の補強】

①「太陽の道」を構成すると思われる新たな社寺・遺跡を定めた。また、「太陽の道」線上を現地調査し、太陽祭祀と関係の深い祭祀遺跡と思われる多数の磐座(いわくら)を確認した。

【例①】「大鳥大社」(大阪府堺市)御祭神:日本武尊/倭建命(やまとたけるのみこと)

<大鳥大社拝殿> ※緯度は北緯34度32分11秒

 

【例②】「長谷寺」(奈良県桜井市)御本尊:十一面観世音菩薩(天照大御神の本地仏)

<長谷寺本堂> ※緯度は北緯34度32分9秒

 

【例③】舟木石上(ふなきいわがみ)神社(兵庫県淡路市)

※地図上で見つけた淡路市の伊勢久留麻神社(松帆神社の兼務社・式内社)を調査に来た際に市職員に案内されて辿り着いた。この舟木石上神社を発見できた事により、小川氏ができなかった「太陽の道」の西の端のポイントを定める事ができた。

<舟木石上神社の磐座> ※緯度は北緯34度32分26秒

 

②「太陽の道」を形成する上で必要な測位を担った一族として「日置(ひき)」氏の存在をクローズアップした。

・日置氏は大和国葛上郡日置郷を本拠とする特殊な職能を持った一族とされる。

・水谷氏は、日置の一族(「日置部:ひきべ」とも言う)が、太陽神を祀り暦法・卜占と関係する集団であり(民俗学者 柳田国男/折口信夫らの説)、かつ浄火や宮廷の灯火の管理に携わった集団であり(民俗学者 中山太郎らの説)、かつ租税徴収の為に戸籍調査/地勢調査を行う集団である(江戸時代の学者 伴信友らの説)という3つの職能を持った「影の測量師」と言うべき集団であったという仮説を立てた。

 

③「太陽の道」のラインを引く為の、古代でも実行できた筈の火を利用した測位方法を検証し充分な精度がある事を証明した。

・松阪市の標高757mの堀坂山山上から麓までの5kmの距離でかがり火を用いて東西の直線を引く実験を行い、レーザー測位に対して誤差20mという高い精度を実現した。

 

④「太陽の道」を形成された理由付け(なぜそうしたか)を行った。

・水谷氏は、当時の権力者(時期的にヤマト王権/大和朝廷か?)が、各地の人民の支配と租税徴収の為に太閤検地のごとく太陽の測位と火を用いた測量の技術で検知を行い、租税徴収の基盤を築いたが、その象徴的事業として「太陽の道」のラインを引いたのではないか…と結論付けた。

 

「太陽の道」のストーリーは淡路島北部で続いている?

ここまでご説明したように、小川氏が発見した「太陽の道」という仮説に対して、水谷氏が粘り強く「どこに」「誰が」「何のために」「どうやって」太陽の道のラインを引いていったのか、現地現物での検証を元に一定のストーリーと確からしさをもって提示した事によって、「太陽の道」のNHKスペシャルは多くの人々の心を掴むことができたのであろうと思われます。

現に、38年後の現在、水谷氏の「知られざる古代」を読み返してみても、決して色褪せない臨場感を感じさせてくれます。

ですが、「太陽の道」が淡路島の北部、舟木石上神社まで到達していたとして、話はどうもそれだけでは終わりではなさそうなのです。

 

冒頭に申し上げたように、そもそも私が太陽の道に興味を抱いたのは松帆神社の何故この場所に建てられたのか…という疑問に端を発しています。

実は、前述の「伊勢の森」「伊勢久留麻神社」「舟木石上神社」を始め、近隣の神社と松帆神社の位置関係、そして淡路島の祭祀遺跡を調べた結果、この淡路島北部を中心とした新たな「太陽の道」と言うべき不思議な位置関係が存在する事が分かってきたのです。

今回は導入部分の話ながら既に長々と書いてしまいましたので、2回目以降に改めて記させていただきます。

2018年06月20日

松帆神社ブログ第15回・~太陽の道~ 北緯34度32分の謎と松帆神社② 淡路島の祭祀遺跡群の「聖なる道」

前回のブログ第14回では、「太陽の道」についての概要をご説明しました。奈良県は桜井市の三輪山の麓にある卑弥呼の墓とも言われる「箸墓古墳」と、かつて天照大御神が伊勢に鎮座される前に仮にお鎮まりになった地・桜井市の元伊勢にある「桧原神社」をつなぐライン上に、天照大御神の象徴たる太陽を祀った祭祀遺跡や神社、寺院、磐座が多数存在し、それはヤマト王権(大和朝廷)の支配を各地に行き渡らせる為に日置部と呼ばれる部族によって人為的に引かれたライン上に形成された…とするロマン溢れる説です。

その西の端の終着点として、松帆神社からそう遠くない舟木地区の山中にある「舟木石上神社」や、淡路市北部の常隆寺山にある「伊勢の森」が候補に挙げられ、淡路島も「太陽の道」の舞台となった訳ですが、淡路島は「太陽の道」が引かれた可能性のあるヤマト王権成立期(3世紀頃)の前後から、何らかの意図・目的をもって祭祀が行われた形跡が各所に残る場所でもあるのです。

「太陽の道」にまつわる淡路島の古代祭祀遺跡群

①舟木遺跡と舟木石上神社

前述の舟木石上神社のすぐ北、標高160mの山上に発見された大規模な鉄器工房を持つ高地性集落の遺跡が「舟木遺跡」です。

舟木遺跡はここ数年で発掘が進み、1世紀~3世紀初めまで鉄器の製作を行っていたと考えられており、また何らかの祭祀が行われた形跡があるそうです。この当時、鉄自体は日本では産出・製錬ともできず、朝鮮半島から輸入した鉄を溶かして再加工する事が行われていました。鉄を溶かして鉄器を作る過程を火の神・鍛冶の神の力の所産と考えていたとすれば、祭祀を行うのも当然かも知れません。

また、このような山上に鉄器職人の集落を設けたのは、当時の最先端技術である鉄器生産の技術を秘匿し、かつ鉄器職人という貴重な人材の逃亡を防ぐ、敵が海から侵入してきた際にいち早く身を隠すなど様々な理由があっての事と思われます。

<淡路市広報・舟木遺跡関連記事より>

ヤマト王権が確立された3世紀中頃には舟木遺跡での鉄器生産は突然終了した模様…との事ですが、恐らく、ヤマト王権が戦いによって支配を確立するまでは他国に隠す必要があって、勢力範囲の西の端、海の上に浮かぶ淡路島に置いたと想像されます。

この舟木遺跡と舟木石上神社の磐座との関連はまだ解明されていません。舟木遺跡と同じ時期・1世紀に既に出来上がっていたのなら、「太陽の道」との関連は疑わしくなりますが、舟木遺跡の鉄器工房が役目を終えた後に、象徴的な祭祀場所として石上神社の磐座が設けられた可能性もあり、断言はできません。

<石上神社・正面より>

<石上神社の磐座(側面)>

最大で約20tの巨石が十数個集められ、(入れませんが)中央には祭祀用に組まれた磐座があります。当時の技術でこれだけのものを作るのは大変な労力であった筈で、当時の人々にとってのこの場所の重要性が伺われます。

正面の最も大きな巨石が南面している事や、石上神社は「日を迎える座」であるが故に男性が祭祀を行うべし…、よって磐座周辺は女人禁制…という伝承が氏子の方々の間に伝わっている事を踏まえると、この磐座では何らかの太陽にまつわる祭祀が行われていたと考えるべきでしょう。

②五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡と伊勢の森

前述の伊勢の森がある常隆寺山の西のふもと、播磨灘を見下ろす標高200mの高台に発見された高地性集落の鉄器工房跡が「五斗長垣内遺跡」です。現在は工房跡の竪穴式住居が再現され、観光地として公開されています。

 

五斗長垣内遺跡では、舟木遺跡とほぼ同じ1世紀~3世紀初めまで鉄器が製作されていた事が分かっています。舟木遺跡にない特徴としては、鉄の矢尻等の武器類が見つかった事、そして舟木遺跡よりも早くその活動を終えていた模様である…という事です。

この五斗長垣内遺跡を見下ろす東側1km程の山上に、伊勢の森の祠があります。

 

この祠は天照大神をお祀りしていると言い伝えられている為、古代においては太陽祭祀の場であった可能性が非常に高い場所です。また、現在は木に遮られていますが、古くは淡路島の四方を見渡せた為、国見の儀式※の場であったとする説もあります。

※祭壇を設けて神の意向を予知し、その土地の神霊の心を知り慰撫して、土地の安穏と発展に協力を願う儀式

また、この場所の緯度は北緯34度30分31秒で、「太陽の道」からは大きく外れていますが、実はヤマト王権(大和朝廷)にとって重要な場所である神武天皇陵(北緯34度29分50秒)や信仰の対象となっている「大和三山」の畝傍山・耳成山・天香久山(耳成山:北緯34度30分53秒)とほぼ同緯度にあります。

<神武天皇陵>

<大和三山の畝傍山(右)と耳成山(左)>

現在は常隆寺への参道脇に埋もれて残っている一の鳥居や、常隆寺の境内に二の鳥居・三の鳥居まで設けられているところを見るにつけ、少なくとも江戸時代までは多くの方の信仰の対象となっていたようです。淡路島を代表する、淡路市仁井(舟木の隣の地区)出身の江戸期の国学者・鈴木重胤の歌碑も残されています。

<伊勢の森・一の鳥居>

<常隆寺境内にある伊勢の森・三の鳥居>(「文政七年」の文字が見える)

さらには、伊勢の森より東側に数百m下った場所にある常隆寺は、無実の罪を訴えて延暦4年(785年)に淡路島に配流される途中で憤死された早良親王の怨霊を慰める目的で、桓武天皇の勅願で建立された「霊安寺」が元になっている寺院です。時代が8世紀に下っても、この地が朝廷にとって重要な場所であった事を示すような逸話です。

 

ここまでご覧いただいて、舟木石上神社(舟木遺跡)や伊勢の森(五斗長垣内遺跡・常隆寺)は、「太陽の道」に関わる場所として語られて遜色のない場所である事がご理解いただけたかと思います。

ただ、驚いた事にこの舟木石上神社と伊勢の森をつないだラインを延伸していくと、淡路島の中に更なる祭祀遺跡が現れてくるのです。

古代祭祀遺跡が列なる「淡路の聖なるライン」?

まずは、舟木石上神社と伊勢の森をつないだラインを南西方向に進むと、淡路国一宮・伊弉諾神宮を横目に見つつ淡路市柳澤地区にある「岩上(いわがみ)神社」へと至ります。(完全にライン上ではありませんが)

 

③岩上神社(神籬石)

この岩上神社は、舟木石上神社の磐座を上回る高さ12mもの巨大な「神籬石(ひもろぎいし)」がある事で知られています。

<岩上神社の神籬石>

この神籬石は全体に北西の方角、つまりは伊勢の森や舟木石上神社の方角を向いており、二つの場所との関連性を想起させる配置となっているのです。

<神籬石の脇からの眺め・北西方向(画面右端)に常隆寺山の山影が見える>

岩上神社の周辺には舟木遺跡や五斗長垣内遺跡のような遺跡は見つかっていませんし、この神籬石でどのような祭祀が行われたかは不明ですが、古くより神聖視されていたからには、何らかの祭祀の場所であったのは確実です。

④「松帆銅鐸」発見地(南あわじ市松帆慶野)

更にこのラインを南西に進むと、「松帆銅鐸」と呼ばれる銅鐸が大量に発見された南あわじ市松帆慶野(まつほけいの)地区に至ります。

 

<松帆銅鐸>(南あわじ市HPより)

松帆銅鐸は紀元前4世紀~紀元前2世紀のものと言われていますので、「太陽の道」が引かれた可能性のある3世紀とはかなり時期的なズレがありますが、銅鐸自体を鐘のように鳴らす事で何らかの祭祀に用いられたと考えられており、この松帆慶野の周辺が宗教的に何らかの意義を持った場所である事が分かります。

⑤五色塚古墳(神戸市垂水区)

先程のラインを、今度は舟木石上神社から北東の方向に進むと、今度は海を渡った神戸側に巨大な遺跡が姿を現します。

<五色塚古墳>

この五色塚古墳は日本でも数少ない、復元保存がなされている大規模な前方後円墳ですが、その被葬者は未調査の為判明していません。

ですが、「日本書紀」の「神功皇后紀」には、夫である仲哀天皇の熊襲征伐途上での崩御・その後の神託を踏まえての三韓征伐を経て、海路大和に戻ろうとする神功皇后とその息子・応神天皇の行軍を阻止しようと企んだ仲哀天皇の別の皇子2人の勢力が、仲哀天皇の偽陵(偽の墓)として淡路の石を運んで築いた…とあります。

実際に、五色塚古墳には淡路島の石が用いられているそうですが、被葬者不明では真相は分かりません。ただ、これだけの規模の古墳を築造する力は当時の明石海峡周辺の領主層にはなかったそうで、ヤマト王権(大和朝廷)が何らかの形で関与した可能性が高いそうです。

ただ、この古墳で注目すべきは、その方向が淡路島の方向を向いている事です。ライン上ぴったりではありませんが、古墳の向きは舟木石上神社や伊勢の森の方向を向いています。

<淡路島の方向を向く五色塚古墳>

<垂直方向が南北の為、五色塚古墳が淡路島の方向に向けて建造された事が分かる>

この五色塚古墳は4世紀末~5世紀初に築造されたと考えられている為、今回取り上げた遺跡の中で最も新しい事になりますが、淡路島の中に存在するこの「聖なるライン」とでも言うべき祭祀遺跡のラインの存在を補強しているように感じてなりません。

 

終わりに

ここまで見てきたように、「太陽の道」が引かれた可能性のある3世紀前後の古墳時代において、淡路島は軍事・工業・そして何より祭祀の面において重要な地域であった可能性は高いようです。それは、恐らくヤマト王権(大和朝廷)にとって…という意味になります。

そうした淡路島の中で、「太陽の道」のラインの通る淡路島北部、特に松帆神社のある東浦周辺には「太陽の道」に関わる可能性のある神社や遺跡がまだたくさんあるのです。そうした、神社や遺跡の配置を確認していくと、松帆神社の創建された場所にも一定の意図が浮かび上がってくるのですが、それはまた次回に…。

2018年12月13日

松帆神社ブログ第16回:淡路国二宮・大和大圀魂神社(やまとおおくにたま/大和大国魂)のご紹介

大変久しぶりの松帆神社ブログの更新となりましたが、今回は淡路島有数の名社・淡路国二宮(にのみや)大和大圀魂神社のご紹介です。

松帆神社の兼務社である伊勢久留麻神社を淡路国三宮(さんのみや)としてご紹介してきましたが、一宮(いちのみや)である伊弉諾神宮に次ぐ二宮として高い社格を誇るのが、今回ご紹介する大和大圀魂神社です。

 

【淡路国二宮 大和大圀魂神社】

※大和大国魂神社と表記される場合があります

<御祭神> 大和大圀魂命(やまとおおくにたまのみこと)

<相殿>  八千戈命(やちほこのみこと) 御年命(みとしのみこと) 素戔嗚尊 (すさのおのみこと)

      大己貴命(おおなむちのみこと) 土御祖命(つちのみおやのみこと)

<社格>   延喜式・式内社(明神大社)/淡路国二宮   ※明治以降の神社制度においては「県社」格

◆社殿を正面から望む

◆神社鳥居(阪神淡路大震災にて倒壊の為、平成10年12月に建立)

 

【御由緒】

社伝では創建年代は不詳となっているが、延長5年(972年)にまとめられた「延喜式神名帳」に、一宮である名神大社・「伊佐奈伎神社」(現在の伊弉諾神宮)に次ぐ名神大社・淡路國二宮として掲載されている。

また「日本文徳天皇実録」仁寿元年(851年)12月5日の条に、文徳天皇の詔により官社に列せられたとの記述があり、「日本三大実録」貞観元年(859年)1月27日の条には大和大圀魂神社の神階が従二位勳三等から従一位となった事が記載されている事から、少なくとも1200年以上の歴史を持つと考えられている。

一説には、大和朝廷が淡路国の支配の安泰を願って大和国の大和坐大国魂神社(現在の奈良県天理市の大和神社)を勧請したと言われており、その説に沿えば創建時期は5世紀頃となる。

※ちなみに現在の大和神社の御祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)、八千戈大神、御年大神の三柱であり、上記の説の信憑性はかなり高いと考えられる

また、一説によれば日本書紀に登場する「御原(みはら)の海人(あま)」を統率したとされる一族・倭(やまと)氏ゆかりの神社とも言われる。

古代の社殿は西向きの播磨灘側に面していたが、海上を通る船乗りが礼拝をせず通過したことに大和大圀魂命がお怒りになり祟りをなした事から社殿を南向きに改めたとの古伝も残っている。

 

【宝物】

大和社印 (兵庫県指定有形文化財)

 

【祭礼】

2月11日:建国祭

2月17日:祈年祭

4月1日:例大祭

7月18日:夏祭

11月23日:新嘗祭

 

【御朱印】

◆現在、大和大圀魂神社は近隣の高田(たかた)八幡神社の兼務社となっている為、御朱印をご所望の場合は高田八幡神社へご連絡下さい。

※大和大圀魂神社の御朱印をいただくには高田八幡神社を訪問する必要がございますが、同時に高田八幡神社の御朱印をいただく事も可能です

◆大和大圀魂神社御朱印 (初穂料:500円)

◆高田八幡神社御朱印 (初穂料:500円)

高田八幡神社連絡先> 0799-36ー3984  〒656-0315 兵庫県南あわじ市松帆高屋甲41

 

【駐車場・アクセス】

<駐車場> 鳥居前に普通車7~8台分の駐車スペースあり

    ※大型バス・マイクロバスの場合は途中の細い道の通行に支障がある可能性があり、駐車スペースも占有してしまう為、

     事前に高田八幡神社までご相談下さい

<住所・アクセス>

〒656-0422 南あわじ市榎列(えなみ)上幡多857 (連絡先は高田八幡神社:0799-36-3984)

◆神戸淡路鳴門自動車道・西淡三原ICから車で10分弱

◆おのころ島神社(赤い大鳥居で有名)より車で5分弱

◆大和大圀魂神社から本務社・高田八幡神社までは車で5分弱

※途中、幹線道路を外れて通行する際に道路幅が狭い箇所がありますのでご注意下さい!

 

 

※ファミリーマートのある掃守(かもり)交差点を右折 ⇒ 後藤歯科医院さんの看板のある方へ右折 ⇒ 突き当りを右折

  ⇒ 分岐を細い道の方(左の方向)に進む ⇒ 大和大圀魂神社駐車場へ到着

2023年08月27日