松帆神社ブログ第15回・~太陽の道~ 北緯34度32分の謎と松帆神社② 淡路島の祭祀遺跡群の「聖なる道」
前回のブログ第14回では、「太陽の道」についての概要をご説明しました。奈良県は桜井市の三輪山の麓にある卑弥呼の墓とも言われる「箸墓古墳」と、かつて天照大御神が伊勢に鎮座される前に仮にお鎮まりになった地・桜井市の元伊勢にある「桧原神社」をつなぐライン上に、天照大御神の象徴たる太陽を祀った祭祀遺跡や神社、寺院、磐座が多数存在し、それはヤマト王権(大和朝廷)の支配を各地に行き渡らせる為に日置部と呼ばれる部族によって人為的に引かれたライン上に形成された…とするロマン溢れる説です。
その西の端の終着点として、松帆神社からそう遠くない舟木地区の山中にある「舟木石上神社」や、淡路市北部の常隆寺山にある「伊勢の森」が候補に挙げられ、淡路島も「太陽の道」の舞台となった訳ですが、淡路島は「太陽の道」が引かれた可能性のあるヤマト王権成立期(3世紀頃)の前後から、何らかの意図・目的をもって祭祀が行われた形跡が各所に残る場所でもあるのです。
「太陽の道」にまつわる淡路島の古代祭祀遺跡群
①舟木遺跡と舟木石上神社
前述の舟木石上神社のすぐ北、標高160mの山上に発見された大規模な鉄器工房を持つ高地性集落の遺跡が「舟木遺跡」です。
舟木遺跡はここ数年で発掘が進み、1世紀~3世紀初めまで鉄器の製作を行っていたと考えられており、また何らかの祭祀が行われた形跡があるそうです。この当時、鉄自体は日本では産出・製錬ともできず、朝鮮半島から輸入した鉄を溶かして再加工する事が行われていました。鉄を溶かして鉄器を作る過程を火の神・鍛冶の神の力の所産と考えていたとすれば、祭祀を行うのも当然かも知れません。
また、このような山上に鉄器職人の集落を設けたのは、当時の最先端技術である鉄器生産の技術を秘匿し、かつ鉄器職人という貴重な人材の逃亡を防ぐ、敵が海から侵入してきた際にいち早く身を隠すなど様々な理由があっての事と思われます。
<淡路市広報・舟木遺跡関連記事より>
ヤマト王権が確立された3世紀中頃には舟木遺跡での鉄器生産は突然終了した模様…との事ですが、恐らく、ヤマト王権が戦いによって支配を確立するまでは他国に隠す必要があって、勢力範囲の西の端、海の上に浮かぶ淡路島に置いたと想像されます。
この舟木遺跡と舟木石上神社の磐座との関連はまだ解明されていません。舟木遺跡と同じ時期・1世紀に既に出来上がっていたのなら、「太陽の道」との関連は疑わしくなりますが、舟木遺跡の鉄器工房が役目を終えた後に、象徴的な祭祀場所として石上神社の磐座が設けられた可能性もあり、断言はできません。
<石上神社・正面より>
<石上神社の磐座(側面)>
最大で約20tの巨石が十数個集められ、(入れませんが)中央には祭祀用に組まれた磐座があります。当時の技術でこれだけのものを作るのは大変な労力であった筈で、当時の人々にとってのこの場所の重要性が伺われます。
正面の最も大きな巨石が南面している事や、石上神社は「日を迎える座」であるが故に男性が祭祀を行うべし…、よって磐座周辺は女人禁制…という伝承が氏子の方々の間に伝わっている事を踏まえると、この磐座では何らかの太陽にまつわる祭祀が行われていたと考えるべきでしょう。
②五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡と伊勢の森
前述の伊勢の森がある常隆寺山の西のふもと、播磨灘を見下ろす標高200mの高台に発見された高地性集落の鉄器工房跡が「五斗長垣内遺跡」です。現在は工房跡の竪穴式住居が再現され、観光地として公開されています。
五斗長垣内遺跡では、舟木遺跡とほぼ同じ1世紀~3世紀初めまで鉄器が製作されていた事が分かっています。舟木遺跡にない特徴としては、鉄の矢尻等の武器類が見つかった事、そして舟木遺跡よりも早くその活動を終えていた模様である…という事です。
この五斗長垣内遺跡を見下ろす東側1km程の山上に、伊勢の森の祠があります。
この祠は天照大神をお祀りしていると言い伝えられている為、古代においては太陽祭祀の場であった可能性が非常に高い場所です。また、現在は木に遮られていますが、古くは淡路島の四方を見渡せた為、国見の儀式※の場であったとする説もあります。
※祭壇を設けて神の意向を予知し、その土地の神霊の心を知り慰撫して、土地の安穏と発展に協力を願う儀式
また、この場所の緯度は北緯34度30分31秒で、「太陽の道」からは大きく外れていますが、実はヤマト王権(大和朝廷)にとって重要な場所である神武天皇陵(北緯34度29分50秒)や信仰の対象となっている「大和三山」の畝傍山・耳成山・天香久山(耳成山:北緯34度30分53秒)とほぼ同緯度にあります。
<神武天皇陵>
<大和三山の畝傍山(右)と耳成山(左)>
現在は常隆寺への参道脇に埋もれて残っている一の鳥居や、常隆寺の境内に二の鳥居・三の鳥居まで設けられているところを見るにつけ、少なくとも江戸時代までは多くの方の信仰の対象となっていたようです。淡路島を代表する、淡路市仁井(舟木の隣の地区)出身の江戸期の国学者・鈴木重胤の歌碑も残されています。
<伊勢の森・一の鳥居>
<常隆寺境内にある伊勢の森・三の鳥居>(「文政七年」の文字が見える)
さらには、伊勢の森より東側に数百m下った場所にある常隆寺は、無実の罪を訴えて延暦4年(785年)に淡路島に配流される途中で憤死された早良親王の怨霊を慰める目的で、桓武天皇の勅願で建立された「霊安寺」が元になっている寺院です。時代が8世紀に下っても、この地が朝廷にとって重要な場所であった事を示すような逸話です。
ここまでご覧いただいて、舟木石上神社(舟木遺跡)や伊勢の森(五斗長垣内遺跡・常隆寺)は、「太陽の道」に関わる場所として語られて遜色のない場所である事がご理解いただけたかと思います。
ただ、驚いた事にこの舟木石上神社と伊勢の森をつないだラインを延伸していくと、淡路島の中に更なる祭祀遺跡が現れてくるのです。
古代祭祀遺跡が列なる「淡路の聖なるライン」?
まずは、舟木石上神社と伊勢の森をつないだラインを南西方向に進むと、淡路国一宮・伊弉諾神宮を横目に見つつ淡路市柳澤地区にある「岩上(いわがみ)神社」へと至ります。(完全にライン上ではありませんが)
③岩上神社(神籬石)
この岩上神社は、舟木石上神社の磐座を上回る高さ12mもの巨大な「神籬石(ひもろぎいし)」がある事で知られています。
<岩上神社の神籬石>
この神籬石は全体に北西の方角、つまりは伊勢の森や舟木石上神社の方角を向いており、二つの場所との関連性を想起させる配置となっているのです。
<神籬石の脇からの眺め・北西方向(画面右端)に常隆寺山の山影が見える>
岩上神社の周辺には舟木遺跡や五斗長垣内遺跡のような遺跡は見つかっていませんし、この神籬石でどのような祭祀が行われたかは不明ですが、古くより神聖視されていたからには、何らかの祭祀の場所であったのは確実です。
④「松帆銅鐸」発見地(南あわじ市松帆慶野)
更にこのラインを南西に進むと、「松帆銅鐸」と呼ばれる銅鐸が大量に発見された南あわじ市松帆慶野(まつほけいの)地区に至ります。
<松帆銅鐸>(南あわじ市HPより)
松帆銅鐸は紀元前4世紀~紀元前2世紀のものと言われていますので、「太陽の道」が引かれた可能性のある3世紀とはかなり時期的なズレがありますが、銅鐸自体を鐘のように鳴らす事で何らかの祭祀に用いられたと考えられており、この松帆慶野の周辺が宗教的に何らかの意義を持った場所である事が分かります。
⑤五色塚古墳(神戸市垂水区)
先程のラインを、今度は舟木石上神社から北東の方向に進むと、今度は海を渡った神戸側に巨大な遺跡が姿を現します。
<五色塚古墳>
この五色塚古墳は日本でも数少ない、復元保存がなされている大規模な前方後円墳ですが、その被葬者は未調査の為判明していません。
ですが、「日本書紀」の「神功皇后紀」には、夫である仲哀天皇の熊襲征伐途上での崩御・その後の神託を踏まえての三韓征伐を経て、海路大和に戻ろうとする神功皇后とその息子・応神天皇の行軍を阻止しようと企んだ仲哀天皇の別の皇子2人の勢力が、仲哀天皇の偽陵(偽の墓)として淡路の石を運んで築いた…とあります。
実際に、五色塚古墳には淡路島の石が用いられているそうですが、被葬者不明では真相は分かりません。ただ、これだけの規模の古墳を築造する力は当時の明石海峡周辺の領主層にはなかったそうで、ヤマト王権(大和朝廷)が何らかの形で関与した可能性が高いそうです。
ただ、この古墳で注目すべきは、その方向が淡路島の方向を向いている事です。ライン上ぴったりではありませんが、古墳の向きは舟木石上神社や伊勢の森の方向を向いています。
<淡路島の方向を向く五色塚古墳>
<垂直方向が南北の為、五色塚古墳が淡路島の方向に向けて建造された事が分かる>
この五色塚古墳は4世紀末~5世紀初に築造されたと考えられている為、今回取り上げた遺跡の中で最も新しい事になりますが、淡路島の中に存在するこの「聖なるライン」とでも言うべき祭祀遺跡のラインの存在を補強しているように感じてなりません。
終わりに
ここまで見てきたように、「太陽の道」が引かれた可能性のある3世紀前後の古墳時代において、淡路島は軍事・工業・そして何より祭祀の面において重要な地域であった可能性は高いようです。それは、恐らくヤマト王権(大和朝廷)にとって…という意味になります。
そうした淡路島の中で、「太陽の道」のラインの通る淡路島北部、特に松帆神社のある東浦周辺には「太陽の道」に関わる可能性のある神社や遺跡がまだたくさんあるのです。そうした、神社や遺跡の配置を確認していくと、松帆神社の創建された場所にも一定の意図が浮かび上がってくるのですが、それはまた次回に…。